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たかが一人、されど一人

異次元の空間 

2017年03月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

1997年に亡くなられてから大分になるので、嘗てかなり流行った作家の山本七平氏の名前を耳にする機会は殆ど無くなった。氏の代表作に『「空気」の研究』(1977年)がある。先の大戦の敗戦責任を問う際に、特定の個人より当時日本を覆っていた空気の存在を考えるべきとした内容で、「へ〜、そんなものかね」と読み過ごしていたものだ。ところが今週になって読んだ本や接している報道を併せ考えた時、改めて『「空気」の研究』を思い出さざるを得ない。唐突ではあるが、1940年4月4日の生まれなので77歳の誕生日が目前に迫ってきた。今ではこのように書いても何の違和感も感じなくなった。しかし昭和天皇が亡くなられた頃までは、 どうしても昭和15年と書かないとしっくりこない感じがあった。このブログでは未だに西暦と年号を併記することが多いが、西暦だけで表記する時代が来ているように感じる。1940年は1868年の明治元年から数えると72年目、誕生した時から現在までの77年を誕生前に当てはめると、明治を通り越して完全に江戸時代になってしまう。勿論ちょんまげ時代の日本の空気を肌身で感じることは出来ないし、誕生当時のことも同様だが、それから5年後の敗戦を挟んでの空気の違いも当時は感じていなかったと思う。しかし現在に至れば、当時どこかで身を包む空気が著しく変わったのは事実で、この違いは当時感じようと感じまいと肌身が記憶しているようだ。1940年代の空気感と現代のそれとの違いは、年代表記を持ち出すまでもなく、あらゆる局面で明らかだろう。国会図書館で持て余した時間に何気なく目を通す1940年代の雑誌を見れば一目瞭然、少年少女から学生・教師・婦人に至るまで「愛国」二文字が冠せられないものを探すのが困難と言っても過言ではない。日本のファシズム(全体主義かな)が如何に凄まじかったかよく分かる。その空気が一変して、今肌身にまとわりつく空気は「民主」一辺倒、そのことについて今日は触れない。そんなこと以上に、空気の変わり目についてある種の凄さを教えてくれたのが麻生財務相である。22日水曜日の参議院「財務金融委員会」でのことだ。民進党大塚耕平氏が、昨今政権に湧き出るスキャンダルについての感想を大臣に求めた。その時の答弁に麻生氏は「インターネットのお陰で、根拠の薄い変な話が拡散するので大変な時代になったものだ。」と答えた。全く同感である。日本はまだいい、アメリカの大統領選挙を見よ、北朝鮮のミサイル発射がサイバー攻撃で失敗に終わったとの報道を見よ。我々が生存する空間が3次元を超えようとしている何かを感じている。

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