李下の冠

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パトラッシュが駆ける！

2017年07月22日ナビトモブログ記事
テーマ：テーマ無し

小さな工具が必要になり、ホームセンターへ買いに行った。
私は六年前まで、金物店を経営していた。
その元店主が、かつての商売仇から、ものを買う羽目になっている。

廃業に際し、多くの商品を処分した。
その工具も、鉄クズ屋に運ばれたかもしれない。
今となっては、悔やまれるが、当時は、先のことを、
考える余裕がなかった。

小さな工具であり、そのサイズの確認が難しい。
そこで私は、見本となる、そのワンサイズ違いを持って来ている。
見比べれば、わかるはずだ。

ホームセンターの売り場には、省力化であろう、店員の姿が、
ほとんどない。
質問しようにも、人が居ない。
するつもりもない。
私には、元金物店店主の、知識とプライドがある。
そこらの素人さんとは、訳が違うと思っている。

肉眼で、見本とのサイズ差を見極め、これで良しと判断した。
六角棒スパナ　３/１６径　本体価格９８円。
名刺大の、パッケージに入っている。
これを掌に載せ、これ見よがしに、レジへと向かった。

私の、かねがね思っていることがある。
スーパーやホームセンターは、店員を減らし、
経費削減を図っているようだが、それは一方で、
万引きを誘発しているのではないか。

例えば、私の手にしている工具を、素早く胸のポケットに入れ、
何食わぬ顔をして、出口に向かえば、それは簡単に、
我が物になりそうだ。
思慮の足らない若者が（いや、若者に限らずだが）、つい、
誘惑に駆られるのではあるまいか。
大型店は、万引きをしやすい、さらに言えば、出来心を誘いかねない、
そういう環境を作ってしまっている。

逆に、紛らわしい行動をすれば、疑われる可能性だってある。
防犯カメラが、随所に設けられているとも聞く。
たった９８円のことで、嫌疑でもかけられた日には、間尺に合わない。
いや、値段は関係ない。
仮に、何万円の品であろうと、不正を働いてまで、
それを手に入れようとは思わない。

もしも、それをやったら、私はこれまでの人生を、否定することになる。
「まっさらな」とは言わない。
「正直一辺倒」であったとも言わない。
しかし、人様に後ろ指を指されることなく、この歳まで生きて来た。
ゴールを前にして、転倒するのは情けない。
転倒し、我が身に大いなる汚点を残す。
いやだ、いやだ。
考えただけで、おそろしい。
万引なんか、死んでも、出来るわけがない。

私は、見本の工具と共に、商品をレジに差し出し、言った。
「これは、見本に持って来たものですから」
店員だって、一瞥してわかるはずだが、ことさらに声に出して言った。
そうして、その工具を胸のポケットにしまった。

　＊　＊　＊

私は、混雑する電車が嫌いだ。
朝のラッシュ時など、身動きの出来なくなるほどに、詰め込まれる。
それでも、乗客は、耐えている。
私は、通勤のない、自営業者でよかった。
とてもじゃないが、あの非人道的扱いに、耐える自信はない。

もし、生きて行くために、どうしても電車に乗ることを、
余儀なくされたなら……
私に一計がある。
早朝出勤だ。
電車だって、始発から、込んでいるわけはない。
空いている時間帯の電車を探し、それに合わせ、家を出ればいい。
その分、早起きすればいい。
眠かったら……その分は、前夜、早寝をすればいい。

時間に変わりがあるものか。
例えば読書でも何でも、前夜やるべきを、出勤先においてやる。
無人のオフィスに、一人居るのは辛い？
そんなことはない。
あの混雑を避けるためなら、敢えて、オフィスの孤独を選ぼうと思っている。

　＊　＊　＊

電車の中ではまた、痴漢騒ぎが起きる。
容疑をかけられた男が、線路を伝い、逃走を図ったりする。
あれにも、困ったものだ。
彼が真犯人なら、仕方ない。
身から出た錆、たんと逃げ回るがよい。

問題は、濡れ衣を着せられた者である。
混雑する車内で、意図なくして、女性の身体に、
手が触れてしまうことはある。
それがヒップの辺りであったら……
目尻を下げている場合ではない。
「何すんのよ」で、その手を、掴まれかねない。
電車内というのは、かくも、恐ろしい場所だ。
私は、この辺も危惧し、なおさらに、満員電車を避けるようにしている。

もしも、やむを得ず、乗らざるを得ないとなったら……
それはもう、両手を上に上げ、万歳しているに限る。
幸いに、吊革というものがある。
これにつかまり、天井を仰いでいるに限る。

痴漢なんぞ、死んでもやりたくない。
晩節を汚して、どうする。
そんなに立派だったのか、お前の人生は……と言われそうだ。
立派でも何でもない。
ただ、これという、汚点がなかったに過ぎない。

　＊　＊　＊

李下に冠を正さずという。
疑われるようなことを、やってはならない。
私は、これほどまでに、気を使っている。

それなのに、嗚呼……
疑われることを、平気でやる人が居る。
それも、巧妙にやる。
記録に残らないようにやる。

よくも、いけしゃあしゃあと……
私は、その顔が、テレビに映る度に、胸くそが悪くなっている。