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たかが一人、されど一人

読後感「戦争の日本中世史」呉座勇一著 

2017年09月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

著者の名前は初めて知った。1980年生まれの若き歴史学者。鎌倉末期1230年代から約150年間、南北朝時代の終わり頃までの俯瞰的日本史を分かりやすく解説してくれている。子供時代からチャンバラが好きで、字を覚えてから講談本など読みふけった時代もあるので、サムライ=武士が日本男子の源流みたいに思っている。が、よくよく考えればいい加減な知識で、鎌倉以前の武士と江戸末期の武士の違いもよく知らない。源平の合戦と言葉は知っていても、知っている武士は平清盛に源頼朝と義経程度のことだろう。そのことはさて置き、鎌倉時代が源頼朝によって開かれたのは1192年で、頼朝が10年もたずに亡くなり、後は北条氏が継いだところまでは何となく中学時代に覚えた記憶がある。また鎌倉時代には外国人が攻め込んできた元寇なる戦いがあったが、この時神風が吹いて敵の船が全滅、これで日本が救われたなんて話も聞いたことがあった。何れもいい加減な知識なので、鎌倉(から室町南北朝時代にかけて)武士と当時の戦いを知るには恰好の手掛かりになる。内容の取っ掛かりは元寇から始まる。元寇については「神風」以外何も知らないのでをwikiで検索したら「当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)という。」と表示された。野蛮な蒙古人がいきなり日本の侵略を企てたと思っていたが、どうも違ったようだ。詳しく書くと読書の楽しみが減るのでごく簡単に言えば、蒙古人は当時からかなり紳士的で、4年も前から鎌倉幕府に対して友好的話し合いを求めていたらしい。ところが当時から日本人には、難しい問題を先送りするという日本政府(幕府、朝廷ともに)固有の悪癖があり、これが原因で戦になっている。これが序論で鎌倉以降の日本統治論と武家や武士のありように入っていくのだが、これが実に目から鱗のことばかり。サブタイトルが<「下剋上」は本当にあったのか>になっているが、「下剋上」どころの話ではない。当時から北は青森から南は鹿児島までが日本だったようだ。問題はその統治形態で、天皇(王朝)も存在していたし、政府(幕府)もあった。これらの統治機構と統治力をどう見るかにある。大昔は天皇自身が武力をもっていたのだろうが、いつの頃からか天皇は武士に政治を任せるようになった。平安時代までは天皇も武士の幕府も京都にあったが、何故か源頼朝の代になると幕府が鎌倉に置かれてしまった。それでも1王朝と1幕府である。鎌倉末期となるとこれが崩れて、日本全国が大混乱に突入。朝廷も分裂するし幕府なんか最低でも二つ、上流から見ても三つ以上のこともあったろう。下々が幕府や朝廷なんかどこまで意識したか、本書に記述は無いので分からないが、年貢を納める殿様か神社か寺か知らないが、それ以外は幕府もへったくれも無かったろう。支配階級の武家や公家から見ても、王朝が万世一系なんてとても言えない。それぞれが誰を担いだら我が家にベストかを考え、親子兄弟ですら時に敵同士にならざるを得ない。生き残るためには昨日の敵は今日の友で、今様に言えば裏切り背信は日常茶飯事だった。しかし武士であろうと殺し合いより平和が良い。強力な誰かが出現して単独王朝と幕府で日本を纏める時が訪れると、支配者連中も一瞬ホットして平和が訪れる。だがしかし、一定の権力者に多くの実力者が従い続けることはあり得ない。平和ボケの後は必ず権力者一党の均衡が破れて内輪もめ諍いが始まり、殺し合いに続くのが歴史の教えるところだそうだ。南北朝の末期に応仁の乱と言う殺し合いがあり、その後に王朝と幕府が京都に戻り一旦平和な時代が来る。その数十年後にはまた王朝なんかそっちのけの戦国時代が始まって、徳川幕府で一旦収まり、平和ボケ時代を経て明治維新のテロと戦が始まったのだろう。南北朝時代と現代には相違点もあるが共通点もある。著者は所々で現代社会のことを引用するので、非常に興味深く読むことが出来た。現代の平和ボケ、外交下手、誰かをあげつらうわけでもない。本書の初版は2014年1月でもある。教えられることや考えさせられることの多い本だった。

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