つれづれに

同窓会その? 

2017年10月09日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

中学の県人会同窓会について。
大阪には鳥取の中学校同窓生が10人以上住んでいる。
毎年大阪・難波で同窓会を開き、互いに親交の機会を持つことにしている。
この10月11日の会は場所を変えて、この私の家に集まることにした。昼食とその後のカラオケは変わらないが、
時には難波の料理店から会場を変えるのもいいだろう、というのが私の提案だ。これには皆が乗ってきた。

私が通った中学は、鳥取の砂丘から南東へ40キロの山奥だった。
私の家は学校よりさらにバスで1時間ほど走って、もうそれ以上奥には集落がないという場所にあった。
雪が積もるとバスが走れないことが多かったので、冬の期間だけ学校の近くの役場の2階・民家などに下宿のような形で住んだ。
役場の場合、10人ほどの私達の食事は、多分誰かが近くでまかなった気がするが、あまり記憶がない。
夜は目の前の学校へ行き、当直の先生が石炭ストーブを燃やす暖かい職員室を、受験勉強の場として提供してくれた。
今では考えられない昔の話だが、3年間の田舎の中学生活は私の記憶から消えることはない。
自分で言うのもおかしな話だがあえて・・
私の得意分野は文科系。英・国・社・音楽、
逆に不得意は理・数系だ。特に国語は群を抜いて、作文では学年でも右に出る者はいなかった。
若い頃に英語のおかげで外国居住を果たしたし、音楽でも、こうして今歌の仕事を得ることが出来た。
そこでは放課後に好きなピアノに熱中して、音楽の授業では、先生の代わりにピアノを弾いたこともあった。

ある日数学の先生に「毎日ピアノばかり弾いていないで、少しは数学をがんばったらどうだ」と言われた。
それをそばで聞いた家庭科の女先生が、「好きな事だから何も気にしないで」と慰めてくれた。
とにかく私の学年総合順位はいつも3位以内であった。
そのためか、県下でトップの進学高校に進んだのである。でも、山奥の中学での好成績は、県下第一の進学校では通用しなかった。そのマンモス高校は当時のベビーブームのせいもあって、実に生徒数2千人を誇っていた。
私はそんな高校で、専ら音楽の部活ばかりに精を出していた。



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