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たかが一人、されど一人

知らぬが仏では済まぬ 

2017年11月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

ブログを書き続けるためには、ネタを探さねばならない。毎日テレビや新聞、雑誌にネットと情報に接しているので、ネタに不自由は無いかもしれぬが、どのような角度から見てどのように書くか、考えると結構難しい。そこで頭の整理をするために、ブログのテーマを幾つかに分けて考えることにしている。扨、昨夜の段階で今日は横綱日馬富士の暴行事件について「メディア関連」で、その隠ぺい体質を取り上げようと思っていた。しかし考えてみれば、この事件は単に角界とメディアの馴れ合いによる隠ぺい体質以上に日本の社会構造に関する大きな問題として取り上げるべきだろう。今回の事件は角界と言う小さな村社会で起きたものだが、考えてみると日本にはあらゆる分野にこの村社会が存在している。そのことが今後も含めて大きな問題だと思う。村とは何を言っているのか、書き手でありながら明確に表現できないが、経済的関係を持つ者同士が、平素から親交を深め、何かあった時には互いにトラブルの調停や利益配等を内々で決め、外部から容喙されぬよう協力する体制をイメージしている。典型的なのが業界団体だろう。諸外国に業界団体のような組織が存在するかどうか知らぬが、日本は実にきめ細かな業界団体の他、組織系列が多数存在する。従って村の内部で起きていることを一般市民はなかなか知ることができない。しかし大きな村には日本の大手マスコミは記者を常駐させている。常駐させないまでも、角界ぐらいになると、専門の記者がいて業界内部の情報は瞬時に入手できるネットワークを形成しているだろう。マスコミは国民全体に広く訴えかけることを使命としている。業界に食い込んでいる記者は内部情報に接した場合に、マスコミに流して公開すべきか、見逃すべきか悩むのだろう。この悩みが個人的であれば分かるが、マスコミも村社会なので、その内部の談合で左右を決しているのが問題だ。日馬富士の事件もその談合が生きていたようだが、一昨日誰かが談合破りをした挙句がこの騒ぎだ。この問題はどう決着しようと、関心はもう無い。問題はこの村社会の談合構造が、司法・行政・立法の三権分立に基づく民主主義の根幹に大変悪い影響を与えていることを心配する。この分野でも談合破りが出てくることを期して待とう。

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