しあわせはいつもふんわり

白隠禅師の逸話を思い出すできごと 

2017年12月19日 ナビトモブログ記事
テーマ:こころ

白隠禅師の檀家の娘が妊娠し
子どもの父親は誰だと聞かれ
白隠禅師だと答えた。
それを聞いた娘の父親が激怒して 
白隠禅師に
「お前が父親だそうだな」となじった。
白隠禅師は
「ほう、そうか?」と答えただけだった。
噂は広まり、白隠禅師の評判は地に落ちた。
しかし、禅師は意に介さずに 落ち着き払っていた。
赤ん坊が生まれると、
娘の両親は赤ん坊を禅師の元に連れてきた。
禅師は その赤ん坊を慈しみ、世話をした。
一年が経ち、
慙愧に耐えられなくなって 娘は
赤ん坊の父親は 近所の若者だと白状した。
娘の父親は 白隠禅師のもとに駆けつけ詫びて
「赤ん坊を引き取らせてもらいます」と告げた。
白隠禅師は
「ほう、そうか?」と言って 赤ん坊を返した。

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逸話をこのように結んでいる方がいらっしゃいました。

普通の人なら 濡れ衣を着せられた時点で 
「父親はわたしではない!」と反論し抵抗するでしょう。
あるいは、一年後に赤ん坊を返せと言われれば
いつくしんで育ててきた赤ん坊に執着するでしょう。
いずれにしても、相手の出方に右往左往し、悲観的になるのが関の山です。
しかし、白隠禅師の態度は ただ「ほう、そうか?」と
流れる水の如く自由です。
今、この瞬間に起こっている出来事と完璧に一体化し、それゆえどんなハプニングも彼に何の力を振るうこともできなかったのです。

起こった出来事に抵抗しようとするから
その出来事に翻弄されるし
幸か不幸かを自分ではなく
外部環境によって決められることになるのです。

少しでも自分のなかの思考や感情を客観的に眺めながらエゴの世界に同化するのではなく
「いま、ここに在る」世界に同化したいものです。
*******
わたしは揺れたり、ブレたりしそうなときに
この逸話を思い出します。
わたしはまだまだ小さな人間で、
すぐに起こった出来事に抵抗し翻弄されます。
辛い、悲しい体験に対して…。
しかし、それはわたしの受けとめ方次第だったとわかります。

外側で起きたことに心が揺れるときは 
起きていることや湧き上がった感情をただ景色のように観て白隠禅師の逸話を思い出してみようとあらためて思いました。



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