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ZRX1200S城
備陽史探訪の会・陸の厳島合戦 廿日市市
2018年03月18日
テーマ:テーマ無し
備陽史探訪の会・陸の厳島合戦廿日市市
廿日市大橋
五日市港に
クイーンエリザベス号が寄港しています。
本日は備陽史探訪の会バス例会 陸の厳島合戦に参加しました。
廿日市市佐伯 佐伯スポーツセンター
廿日市市との合併のドサクサで作ったとか
中山城跡
地元の方により整備されています
本丸
本丸下の堀切
多くの人力と思いが無いと山城は保つことが出来ません。
八田家 米蔵
文政十年(1827)の建築の長屋門と米蔵は、八田新七の時代、 広島市辺りまで拡大した所有地をもち、 その資産は一県に値するほどであったと伝えられる八田家のものです。
特に米蔵は梁間4間(7.73m)桁行き10間(19.15m)総二階造りの大規模なもので、 当時の大地主ぶりがうかがえる貴重なもので、 門柱には明治4年9月の武一騒動の際ついたといわれる傷跡があります。
折敷畑古戦場
山際の細い道がかつての津和野街道
よくある腰掛岩の類です
桜尾城跡(桂公園)
承久3年(1221年)の承久の乱の結果、中原親能の一族である藤原親実が新たな厳島神主となり桜尾城を築いた。しかし藤原親実は幕府の要人でもあり、厳島に下向して神職を務めることはなく、代官による支配であった。しかし時代が下り、幕政が混乱すると藤原氏が下向して桜尾城に入城し、直接支配するようになった。室町時代には武田氏の武田信賢が厳島神主家の社領に侵入し、永享13年/嘉吉元年(1441年)には桜尾城も包囲されるに至ったが撃退した。その後は大内氏の傘下に入り、桜尾城も平穏であったが、戦国時代になると家督を巡って一族で争いが起き、長い内紛の結果、友田興藤が家督を継承し、桜尾城を新たな居城とした。その後、大内氏が家督に介入してきたため、興藤は尼子氏と通じて天文10年(1541年)に大内氏を離反したが、逆に大内義隆に攻撃され桜尾城は落城、興藤は自害した。友田興藤自害後は、大内家臣の佐伯景弘が新たな当主となった。天文24年(1555年)の厳島の戦いの前哨戦で、桜尾城は毛利元就の支配下に入り、桂元澄が城主として入城、厳島の戦いでの後方支援を担った。その後も桜尾城は桂元澄の居城として続くが、元澄の死後、毛利元就の四男の穂井田元清に与えられ、その居城になる。
厳島の戦いの後に自害した陶晴隆の首実検もこの城で行われました。
今は平坦に削られ城の面影を見ることは出来ません。
大正時代に撮られた桜尾城跡 南側は海に面していたようです。
洞雲寺
かつては田んぼの中の古刹といった感じでした。
洞雲寺には歴代の桜尾城主の墓、陶晴賢の首塚があります。
説明板
説明板にも歴史上著名な武将の墓として貴重であるとされています
陶晴賢の墓が陶の墓ではないと疑問を提出されている方もいます。
郷土史家の故石田米孝氏で、『廿日市の歴史探訪』という本を書かれた方です。 石田氏は陶晴賢の墓が初見は浅野藩で編纂された芸藩通志であることを指摘されています。
それ以前の洞雲寺の墓についての伝承は、佐方村下調帖(1618年)という記録によれば、 往古ヨリ有来墓所 1. 厳島下野守教親墓 2. 厳島上野介興藤墓 3. 毛利治部大輔元清公墓 毛利元就公四男、長州長府御領主元祖 同御内室墓 4. 大江元澄墓 長州家臣桂氏ノ元祖とあるだけで、陶晴賢の墓についてはまったく記載がありません。
1618年の時点では、洞雲寺には陶晴賢の墓の伝承は無く存在も確認されていなかったということになります。 ところが芸藩通志で、陶晴賢の墓が突然登場します。石田氏の推測によれば、陶晴賢の墓のすげ替え事件は以下のような顛末であったろうと推測されています。
芸藩通志を編纂していた担当者たちが、洞雲寺に来て調査してみると、あれだけ有名な陶晴賢の墓がない、または特定できない状態にあった。 しかし、洞雲寺で陶晴賢の首実検を行い塚を立てたことの史実はあるわけです。
史実はあるのに陶の墓がないのはおかしい。寺にも陶の墓と伝承されているものが記載されていない。
そこで担当者たちがとった行動はそれらしき立派な墓を陶晴賢の墓と指定したのではないかという推測です。
陶氏の墓の近くに厳島上野介興藤墓(友田興藤)の墓があります。
16世紀前半神領衆(厳島神主家被官)を率いて大内氏と戦った厳神主です
天文十年(1541)興藤は、大内氏に対して蜂起。海賊衆の村上三家を呼び寄せて厳島を占領するとともに桜尾城に篭城しました。
大内方の反撃は鋭く大内水軍を率いる黒川隆尚が厳島を奪回。
ついには桜尾城に火をかけて切腹しました。
この宝篋印塔の基礎には天文九年(1540)の刻銘があり、興藤が在世中に建立した逆修塔とみられています。
廿日市市も宅地開発が進み歴史的遺構が失われつつあります。
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