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たかが一人、されど一人

いろは匂えど散りぬるを 

2012年02月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

婿さんの会社が半導体関係なのでびっくりした。エルピーダメモリ、国内唯一の半導体メーカーらしい。半導体なるものの意味も分からないくちだが、これが現代の機械類には大量に使用されていて、産業の米との譬えられパソコンから携帯、自動車に至るまでこれ無しには成り立たない筈ぐらいの知識は持ち合わせている。国内に競争相手がいないのだから引く手あまたの売り手市場かと思えば、とんでもない思い違いだったらしい。振り返れば高校または大学を卒業する頃、我が国は高度成長の入り口にあった。即ち「ものづくり」産業成長の真只中で、多くの友人が学業的には理系を目指し、卒業してはメーカーに就職する割合が高かった筈である。当時は産業構造が1次から3次に分類されるのが普通で、1次は農水産業、2次は製造業、3次がサービス業だったように記憶している。田舎とは言え県庁所在地の県立高校だったので、1次志望は皆無に近く、家業を継ぐことなっている人以外、殆どが2次志望で3次志望(官庁系は別)は少なかった筈だ。当時製造業で華やかに見えたのはカメラメーカーだった。終戦僅か10年ちょっとにして海外に進出していたのはオリンパスやヤシカだったと記憶する。ヤシカが記憶に鮮明なのは特別の理由がある、昭和38年(1962年)大学卒業に当たり、人並みにメーカーに就職を希望した。受験させてもらえた企業は信越化学とヤシカ、何れも地元に縁があった。先ず信越化学は筆記が難しくてとても無理だと思ったし、新潟勤務の可能性が高そうなので気も進まなかった。ヤシカは父の口添えがあり英語の面接だけだったので、格好いい会社と思って気持ちとしてはとても入りたかった。しかし父のところに、高卒と同じ扱いでよければ採用、との連絡があったが父が言下に断ったと聞いてがっかりした事を今でも鮮明に記憶している。その後精密機械関連は日本成長のシンボルみたいになって、光学機械や時計産業がヨーロッパの高級品を凌いで花形になっていった。こうして製造業への就職は夢破れ、本意ではなかったが第3次産業を目指して数社の試験を受けるが何れも落第。かくして4年生の秋もかなり遅くなって、結局創業4年目の零細広告代理店に入社せざるを得なかった。しかし今にして思えば、あの時ヤシカに就職できていたらと思うとゾッとする。その後の半世紀の間で数多くの倒産劇を見てきた。会社更生法で再建されても社員は余りハッピーになれそうにない。人生て奴は本当に不思議なものだ。どんなに偉い人にも、行く末に待つ巡りあわせなんか分かりはしない。エルピーダメモリの社員、オリンパスの社員、東電の社員、日本航空の社員、一寸遡れば山一證券の社員。皆入社した時は嬉しかったに違いあるまい。それがこんな巡りあわせになる。しかし他人事ではない。トヨタだってパナソニックだって同じだ。半世紀前と異なり、商圏が地球規模に拡大した今、商社なんかの第3次産業が花形に見えるが、これとていつまで続くことやらだ。

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