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Jii−Jiiの日記

「瓦礫の中の幸福論」(渡辺淳一氏著)を読んで 

2012年03月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

作者渡辺淳一氏は、昭和8年生で札幌医科大学卒・医学博士・「和田教授心臓移植事件」に遭遇、和田教授との関係等を起因に医師を辞めて作家へ転向、作家として「白い宴」「光と影」「失楽園」等の作品があります。著者昭和8年とボク昭和11年で3歳の差がありますが、戦後の3歳の差はかなりの差でありますが、概ね戦後の思いは共有できると思いますので、主な目次に従って感想を述べたいと思います。敗戦の日、父の祖母の遠縁にあたる疎開先「豊後高田の沓掛」で、玉音放送「堪えがたきを堪え、忍びがたを忍び」未来永劫のために、平和の世界を切り開こうと思うのである。と昭和天皇のお言葉を賜りました。別府の街に、アメリカ進駐軍が楠港からジープの先導により流川通りは車両の長蛇の列で「さすが戦勝国だなー!」と子供なりに認識しました。母が、「山香」までお米に変えるための着物を持って「闇米」を求めて行き、帰りはあの恐ろしい「臨検」を避けながら、女中さんと2人がやっとの思いで自宅にたどり着いた姿を見て、子供なりにホットしていた記憶が旋律的に思い出します。アメリカ進駐軍により別府の街は、戦前以上に賑やかになり、「日名子ホテル」のチーフシェフの息子から、真っ白いパンと白身の多いロース・ハムを頂いて、貪る様に食べた記憶が甦ってきます。「安保闘争」は、最高学府の、最高の大学「東京大学」の学生が中心となり、日米安全保障条約に反対する日本史上最大規模の反政府、反米運動が行われました。当時の学生は、良きにつけ、悪しきにつけ、地下から彷彿するエネルギーは、若い力は、凄まじいもので、その力を今必要とするエネルギー・若い力だと思う!(樺美智子さんの死亡は残念な出来事でした。)「二つの死から一つの生を」の言葉通り、「和田教授の心臓移植成功」を医療の進歩を感じながら報道に関心を持っていました。「心臓移植の成功」から「心臓移植に至った経緯の疑問」となり、「和田教授心臓移植の流れに対し、不適切な事例があった理由による告発」そして「宮崎信夫君の死亡によって心臓移植の失敗」と当時は重要ニュースとして報じられました。渡辺淳一氏は同大学の医師であり、マスコミからの質問に対する受け答えで和田教授との人間関係が拙くなり、医師を辞めて、作家に転向し得たことに敬服します。その後、アメリカの軍事力の傘の下で、世界第2の経済大国となりました。...

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