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時間の速さ 

2012年05月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

人が感じる時間の速さは、その時の気分や年齢などにより変化すると言われているが、一年は、365日であり、誰にとってもその日数は同じだ。そして、一日は24時間、一時間は60分、1分は60秒という数値も変わらないはずである。
 
今日は買い物日だが、3ヶ月に一度の割合で眼科へ通院している妻のために、先ずは御代田にある御代田中央記念病院へ向かった。病院へ到着したのは午前9時を少し回っていたが、診療が終わり薬を受け取って病院を後にしたのは午後1時前だった。以前の私なら、この時間はとてつもなく長い時間であったに違いない。しかし、本を読んだり居眠りをしたり、テレビを見たりしながら、他に約束や目的のない自分にとってさほど長くは感じなかった。しかし、当の本人は、私を待たせているという気遣いもあって大変長く感じたという。この場合は、その人の気分による時間の長さの感じ方であるが、年齢を重ねれば重ねるほど、1日なり1年が速く過ぎるという感覚は多くの人が感じることである。それは、人がそれまで生きてきた経験の量の比率のようなもので時間を感じているからだという説がある。すなわち、例えば7歳の子供にとっての1年が人生の7分の1であるのに対して、70歳の人にとっての1年が人生の70分の1であることからも説明できる。
 
私は病院での待ち時間の間、多田富雄著「独酌余滴」というエッセイを読んでいたが、そのなかに「時間の時速」というタイトルがあった。その中で著者は、物理的な時間を絶対時間、人間が感じる時間を相対時間とすると、私の相対時間の絶対時間に対する「時速」は年々速くなっているという。さらに著者は言う。子供のころの一日は長かった。夏の日など学校から帰って、たっぷり昼寝をして起きてからまたひと遊びして、ゆっくりと夕日が山に落ちるのを眺める時間があった。学生時代のころは、毎日数多くの事件が、一日という時間の中に目白押しに並んでいて、思い出すだけでも長い長い物語になっていた。それがいまでは、一日どころか一年さえも気づかぬうちに過ぎてしまう。忙しいからと言っても、仕事の量を減らしたくらいではどうにもならない。いったん加速がつき出してしまった時間の時速には、そう簡単にブレーキがきかない。
免疫学の世界的権威だった著者は、せめていっときの時間を意識しながら過ごすよりほかはないかもしれないが、心の片隅では時を忘れるほどの興奮を求めていることも確かで、そちらの方が強いために時間はますます加速してゆくらしいと語り、時間の速度を感じるのは脳なのだから、脳の方が時々刻々変わっていったのかもしれないので、もうそれを甘んじて受けるほかはない。そして、そんなことをぐずぐず考えているうちに、恐ろしいことにまた一日が過ぎてしまった。そして、著者は「時間の時速」を遅らせる方法は、どうやらないらしい、と結論している。
 
時間の速さは、どうやら済んでしまった過去の経験が一つの大きな要素に違いないが、人の人生には楽しいことや悲しいこと、苦しいこと、恥ずかしいことなど、さまざまな出来事がある。
いろいろな経験を積みながら刻一刻と過ぎていく時間は、考え方により速くなったり、遅くなったりするのかもしれない。
しかし、どんな時でも、そこに満足する自分がいる限り、時間のスピードは、きっと適切な法定速度になっているに違いないのだ。
 
長い日本列島の多くの場所では、すでに桜は散り、もう過去の話となっているが、我が家の桜はやっと新芽が出はじめたところだ。もうすぐに5月も半ばとなり初夏の佇まいである。やがて初夏に咲くたくさんの白い花が輝きを見せる。ここでは春と初夏が同時に来るようだ。
そして、私の時間は、大自然の中で、ゆっくりと過ぎていく。
 
 

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