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人生いろは坂

猛暑 

2012年08月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 最近いつも話題になるのはこの夏の暑さだ。私達世代の誰しもの感想だが、夏休み中どんなに暑いと
言っても30度を超える日は数えるほどしかなかった。クーラーや扇風機さえもない頃の話である。

 日中の暑さをしのぎ夕方になると、たらいにぬるめのお湯を入れ行水をするのが日課になっていた。
さっぱりとした体で夕食を早めに済ませ又遊ぶ。そして21時を過ぎる頃になると急速に気温は下がり
涼しい風が吹いてくる。

 泥棒に入られてもさしてめぼしいものはないから戸や窓を開け放ち蚊帳の中にもぐり込む。そんな
夏の過ごし方が普通だった。

 夏の楽しみと言えば夜店であった。そして一年に一度、近所の工場のオート三輪で行く福山の花火が
最高の思い出だった。夏休みの思い出は、これで十分だった。昨今のようにイベント続きでは喜びも
感慨も薄れてしまうのではないだろうか。何かと行事の多い今の子ども達に夏休みらしい思い出はある
のだろうか。


 さて、先日は東日本に猛烈な雨が降ったらしいが、ここ児島ではほとんど雨らしい雨は降らなかった。
梅雨明け以来、もう何日このような猛暑が続いているのだろう。期待した雨も降らず、がっかりして
いたら前の晩の宵のうちにぱらぱらとほんのわずかばかりの雨が降った。

 雨の力は実にすごい。あれほど毎日のように散水していてもさしたる効果も見られないのに、ほんの
わずかばかりの雨なのに翌日は雑草がものすごく元気になっていた。雨には何かしら不思議な力がある
ような気がしてならない。単に地面を湿らせるだけが水の働きではなさそうである。人間の力では到底
及ばない自然の力である。


 ロンドンオリンピックは残すところわずかとなってしまった。種目によって悲喜こもごもではあるが、
かつて注目を集めていた種目に目立ったものがなく、従来は見向きもされなかったような種目が注目
されている。

 そして何よりも金銀や銅メダルを獲得する種目の範囲が広くなった。日本でのスポーツの幅広さと、
それだけの選手を育成できる社会的、経済的な土壌が整ってきたと言うことではないだろうか。メダル
の獲得数と種目の多さは、何だかんだと言いながら日本の豊かさを表している。全ての面に於いて成熟
した日本の姿を感じることが出来る。

 一方、日本のお家芸であった柔道に何となくかげりが見える。しかし試合を見ていて、これが本来の
柔道なのだろうかと目を疑うような試合さえ少なくない。単なる組み手と力勝負、これは「柔良く剛を
制する」と言われてきた柔道本来の姿ではない。

 その上、判定さえおぼつかない審判員が多いのにも驚かされる。陸上競技や水泳のように結果が
タイムで表れないものだけに審判員の力不足はいかんともしがたい。今後、再検討を要する競技では
ないだろうか。

 試合放棄ともとれるようなバトミントン競技やメダルの獲得だけをこだわった競技や選手の姿が
見られたのは実に残念なことである。これがスポーツと言えるのだろうか。オリンピックの精神は
どこへ行ってしまったのだろうか。


 東京では連日のように反原発のデモが行われている。かつてデモと言えば総評や社会党等といった
反体制派組織のものであった。そうした組織が消えてしまい日本国内ではほとんどデモらしいものは
なくなってしまった。

 そして今は、そうした組織労働者が中心だったデモとは全く縁のなかった人達が、動員ではなく
自らすすんで集会に参加している。それも並の数ではない。今まで何があっても反体制派の動きには
沈黙を保ち報道すらしなかったマスコミが、わずかながらもニュースとして取り上げ始めた。

 もはや、この動きを無視できなくなってきたのではないだろうか。それだけこの動きは意味が深いと
言えよう。彼らを行動に駆り立てているものは、このまま放置すれば第二、第三の福島になるかも
知れないと言う危機感の現れである。

 そんな最中、原発事故に関する150時間にも及ぶ東京電力内の動きを追った記録のほんの一部が
公開された。一般の人達には理解できないと言うことを良いことに専門家ばかりの原発村と揶揄される
集団が政府を巻き込んで原発政策を推し進めてきた。

 主役はこうした原発村と揶揄される専門家ではない。ましてや経済界の首脳でもない。核や原発の
ことは理解できなくても一般の私達国民がこの国の主役である。私達を無視し従来のような原発政策
を進めることは許されない。

 国民の多くの選択がそうであるならば、どんな理由があろうとも原発は速やかに停止すべきである。
最早、電気が不足したら大変なことになると言うような脅し文句は通用しない。足らないのであれば
足りるようにすればいい。電気を使わないで済むところは削減すればいい。それが多くの国民の選択
である。

 将来に渡って多くの命が脅かされるようなことを電力不足と引き替えに論ずるのはナンセンスである。
もう一度、かつて私達が子どもだった頃のことを思い出してみたい。冷蔵庫も扇風機もクーラーも何も
なくても生活に困ることは全くなかった。

 人の命も寿命という自然の有り様に逆らうこともなく生を全うしてきた。むろん生命維持装置等と
いう高度な医療設備もなかった。それがごく自然のあり方だったからである。


 人間力がなくなったと言われている。私達のこらえ性がなくなったと言われている。分別盛りを通り
越し老境の域に達していても良いはずの高齢者の問題行動が多い。いわば人間として成長し切れていない
としか思えないような人が見られるのは残念なことである。

 その昔、人は小学校を卒業する頃にはもう一人前の人間として扱われ、自らもそうした自覚を持って
いた。体こそ小さかったが考え方は大人そのものであった。それがどうだろう。いつまでたっても精神
年齢の低い成長しきれていない大人が増えている。

 原発事故の当事者である東電の幹部やそれを指導すべき立場にある原子力保安員など政府役人達も
その中に含まれる。いじめもまた然りである。体だけは大きくても幼稚な精神しか持ち合わせていない
子ども達が、執拗にいじめを繰り返し問題行動を起こしている。

 彼らは抑制の効かない赤ちゃんと同じである。いじめがあっても見て見ぬ振りをし、それを指摘され
るとふてぶてしく開き直る。自分の身の保全にしか考えが及ばない教育関係者。そうした人が次第に
増え続け、問題行動を起こし連日のように事件として報道されている。

 このまま行けば日本はどうなるのだろう。そんな心配をしているのは私だけであろうか。

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