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平成の虚無僧一路の日記

山頭火を世に出した「大山澄太」 

2012年12月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「山頭火」を世に出した「大山澄太」について、またまた
松山の「宴の桜」さんからご教示いただきました。
掲載させていただきます。

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山頭火は、「大山澄太」という熱烈なファンがおり、この
大山澄太が山頭火を世に紹介し、世に広めた仕掛け人とも
言える人です。山頭火の本も書いて書いて書きすぎて
右手が利かなくなり、晩年は左手に筆を持ち、優しい
筆致の書家として暮らしたそうです。世に出る人には、
必ず犠牲になる人と、世に出す人が陰に必ず居るというのが
私の持論です。いかに優れた人でもこうした人がいないと
埋もれたままではないかと思います。

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「宴の桜」様、ありがとうございます。ほんとに教養豊かな
方です。山頭火は最後、四国松山で亡くなったのでしたね。
「松山」といえば「夏目漱石」そして「正岡子規」ですが、
「山頭火」も、松山では相当 知られた存在のようです。

ネットで検索してみましたら、「NPO法人・まつやま山頭火
倶楽部」というのがあって、「大山澄太」のことも詳しく
研究されていました。こんな記事もありました。

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山頭火は、いわば彗星のように出て来たので、不思議に思って
いたが、「大山澄太」という優秀な編集者がついていたことが
分かった。この人は、荻原井泉水の「層雲」に投稿するうちに
山頭火を紹介され、意気投合し、。大山澄太は、山頭火の第2句集
『草木塔』を編集し、その後も山頭火の関係の本を編集、
発行して、山頭火ブ?ムを創ったのだ。

山頭火が松山を死地に選んだ時、松山の友人達、高橋一洵、
藤岡政一、清水恵らを紹介して、そこでの山頭火の生活を
支えてもらった。山頭火の死後もその顕彰を続け、山頭火を
芭蕉に次ぐ、句碑の多さにまで有名にし、世に出したのだ。

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尚、「芭蕉の句碑」は全国に 2,400以上あり、「山頭火」の
句碑は、500基以上あるようです。それも、昭和50年
(1975年)以降に 大半が建てられており、「山頭火ブーム」の
高まりを示しているとのことです。 

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