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平成の虚無僧一路の日記

一休の母の墓が大阪門真市に 

2013年01月30日 外部ブログ記事
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昭和36年に、門真市に住む「楠の子孫」という人の蔵から
『橘姓楠家倉氏系図』というのが発見され、話題になった。
『歴史読本』のニュースコーナーにも掲載されたので記憶している。
江戸時代に書き写されたものだが、「楠木正儀の三男正澄の娘が
後小松天皇の官女となったが 仔細あって退官し、一休を生む」と
記されていたのだ。

これは、『一休和尚年譜』に、「母は藤原氏、南朝の高官の
血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けていたが、帝の命を
狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を
生んだ」という記述と符合する。


門真市三ツ島には一休の生母のものと伝わる墓がある。地下鉄
鶴見緑地線の終着駅「門真南駅」を約500m程北へ行った所、
大阪門真市三ツ島の「三ツ島公園」内。これが、昭和36年に
『橘姓楠家倉氏系図』が発見される以前から在ったものなら、
興味深い。後のものならニュースに便乗したものだ。

さて、では「楠正儀」とは誰か。「正儀」は楠木正成の三男。
楠木正行、正時の弟である。父・楠正成(まさしげ)、兄・正行
(まさつら)、正時が相次いで戦死し、“南朝の忠臣”として祭り
上げられたのに対して、「正儀」は北朝の後小松天皇と足利
三代将軍義満に降り、摂津、河内の守護に任ぜられた。

江戸時代後半から太平洋戦争までの「皇国史観」では、「正儀」は
“裏切り者”“父や兄たちの名声に泥を塗った”として抹殺されて
いた。だから『橘姓楠家倉氏系図』も世に出せない事情があった
のだ。

この系図には「楠正儀と三男正澄が河内国(大阪府)の倉満庄
津田村(枚方市)に移り住んだ」とある。

「大阪府門真市教育委員会の説明板」では「隠れ住んだ」と
書かれているが、「正儀は 1369年、河内と和泉、摂津の
住吉郡の守護職に任ぜられているので、公に移り住んだので
あろう。

しかし 1382年 「正儀」はまた南朝に寝返る。だが、三男の
正澄は、北朝側に留まったのであろう。北朝への忠節を示す
“人質”として、娘を宮中に差し入れた。「楠姓」では いかにも
まずいので、名目上は「藤原」姓の公家の養女として入内した
のであろう。

そして、1392年「南北朝の合一」が成り、三種の神器が北朝に
渡される。しかし、義満に騙されたと知った南朝側が、再び
神器を奪い返そうとする不穏な動きがあり、正澄の娘も
「懐中に懐剣を偲ばせ、帝の命を狙っている」と疑われ、
宮中を追われるのである。

そして、門真市の辺り にわび住まいして「一休」を生んだ。
一休が生まれたのは、南北朝合一が成った1年半後の
1394年1月1日。

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