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大寧寺 大内義隆主従墓所 

2013年05月07日 外部ブログ記事
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                                          大寧寺本堂
 大寧寺は、永享の頃(一四二九〜一四四〇)長と守護代鷲頭弘忠により、能登総持寺の石屋眞梁禅師を請じて開山した古刹で、天文二十年(一五五一)の大内義隆の自刃にともなう焼失と寛永十七年(一六四〇)の野火による二度の火災に見舞われて現在に至っている。
 現存する本堂は、文政十二年(一八二九)四十五世泰成の代に境内諸堂の一つである衆寮をもとにして建替え、向拜や後陣を増設したものである。毛利文庫の「大津深川大寧寺諸堂御脳所並自作事所差国」によると、境内伽藍は一町四方余に山門、本堂 開山堂、庫裡、客寮、小庫裡をはじめ、耆宿寮、僧堂、衆寮、東司など参禅のための諸堂が完備し、西国九州を統轄した僧録司の威容をしのばせるものがある。
 このように本堂は、もと衆寮という曹洞禅の道場の一つをあてたもので珍しく、規模も県下仏教寺院中最大で、建築史上稀少価値がある。

 

 

応永三年(1396)の鐘

 

 

                    
 経蔵跡
               看板を読んでビックリ          

  経蔵跡横から義隆公墓所に登る途中の石垣
            城の様相です。

 
          大内義隆主従墓所
遊仙窟と呼ばれる山腹に大寧寺歴代住職墓所と大内義隆主従の墓所があります。
 
遊仙窟入りロより左手に歴代住職の墓(無縫塔)が並
んでいます。 
         写真はあまり撮っていません。         
      
   公家の三条公頼(さんじょう きんより)などの墓
たまたま山口に来ていて大寧寺の変に遭ってしまいました
  三条公頼の次女は武田信玄に嫁いでいます。  

  大内義隆・義尊父子の墓とその従者の墓
   宝筐印塔が二基






 大内親子の墓の周囲は義隆と最後を共にした
冷泉隆豊、黒川隆像、岡部隆景、天野隆良、大田隆通、岡屋隆秀、祢宜民部等の墓が囲んでいます。
                       

                    墓碑説明

 
                大内義隆主従の墓所
 室町時代、山口を本拠地として中国、九州、京畿に勢威を振るい、京都をしのぐほどの山口文化(大内文化)を生み出した守護大名大内氏の最後の武将義隆は、陶晴賢の反逆により山口を追われ、美祢郡綾木を経て青海島へ辿りつき、上利、後根などの土豪に助けられて九州へ落ちのびようとしたが、悪天候のため引き返し、天文二十年(一五五一)九月一日大寧寺において異雪慶殊和尚の受戒を受けて自刃する
 墓地には大内義隆義尊の父子をはじめ、最後まで従った冷泉隆豊、黒川隆像、岡部隆景、天野隆良、大田隆通、岡屋隆秀、祢宜民部等、さらに二条関白尹房親子、持明院基規、前左大臣三条公頼等の公卿をも含めて三十三柱の宝篋印塔の墓が建てられている
 各墓には明冶二十一年十二月毛利元徳建之と刻んだ墓標があり、寛政十二年(一八〇〇) 義隆二五〇回忌のときの建立と思われる墓標も残っている
 
静寂なひんやりとした空間でした。
この山の南斜面ほとんどが墓地です。
室町から江戸の墓で埋め尽くされています。
何故だかカナヘビ(茶色のトカゲ)が多く、足元をちょろちょろしました。
 

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