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平成の虚無僧一路の日記

「八重」に撃たれたのは「牧野群馬」か「大山巌」か 

2013年07月01日 外部ブログ記事
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会津藩側からみた戊辰戦争は、生き残った人の「証言」として
実に詳細に記録が残されています。ネットでも、三千人近い
戦死者の戦死場所、墓など、ほとんど記録されています。
私の先祖の最後なども掲載されているのですから、本当に
驚きます。

『八重の桜』は、戊辰戦争の各エピソードを実に忠実に
なぞってくれています。ただし、「山本八重」や「川崎尚之助」に
ついては 史料に乏しく、今まで あまり語られることは
無かったのですが、そこを これまた実に上手く、脚本で
カバーし、リアルに描いてくれています。

第26回、いよいよ「八重」の銃が火を吹きます。北出丸の
石垣の上から大手門に侵攻してきた西軍に発砲します。

この時、大手門にまで攻め入ってきたのは「土佐藩」でした。
そして、土佐藩の軍監「小笠原唯八」(40歳)とその弟の
「小笠原茂連(28歳)が撃たれて戦死します。


「小笠原唯八」は、この時「牧野群馬」と改名しており、
西軍墓地の墓碑には「官軍諸道軍監・牧野茂敬墓」とあります。

(私の先祖の一人「牧原文吾」も「松井九郎」と改名していたり、
新撰組の「斉藤一」が「山口一、山口二郎、一戸伝八、藤田五郎」
などと変名を使っていたように、名前がいくつもあって、
やっかいなことです)

さて、土佐藩の軍監「牧野群馬」こと「小笠原唯八」(ややこしい)に
ついて、昔読んだ本には「老若男女ともに、会津藩の壮絶な戦いぶりに
感動し、『われ、この地を墳墓の地と定めたり』と、弾に向かって
突進していった」と、書かれていて、感激したものでした。
これは書いた人の創作だったのかもしれません。

土佐藩に代わって大手門に攻め寄せたのが「大山弥助(巌いわお)」
率いる薩摩勢。ここで「大山弥助」は、足を撃たれ、後方に搬送
され、会津攻めから退きます。

その直前、大手門前の「西郷頼母」邸では、女子供一族21人が
自刃して果てたのでした。そこで「西郷邸」にはいり、まだ息の
あった「細布子」を介錯したのは「土佐藩士」だったのか
「薩摩藩士」だったのか、微妙なところです。


「大山巌」は、西郷吉之助(隆盛)の従兄弟。西南戦争では西郷を
討ち、会津藩家老「山川大蔵、健次郎」の妹「咲子(捨松)」を
後妻にもらうことになります。大山巌の薩摩弁と「捨松」の会津弁
では話が通じなかったので、二人は「英語かフランス語」で会話して
いたという、驚きエピソードもあります。


さてさて「山本八重」がスペンサー銃で撃ったのは、土佐藩の
「牧野群馬」か、薩摩の「大山巌」か。その両方だとすると、
これはまた すごいことになりますな。


ちなみに、土佐藩で会津戦争に参加した兵は、約200人。
その四分の一の49人が戦死しているのです。これに対して、
薩摩は33人、長州は(たったの?)24人。会津藩は
3,000人ですから、彼我の差に愕然となります。

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