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平成の虚無僧一路の日記

「愛知一中」OBのOさんに聞く 

2013年08月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ラジオ体操で リーダー役を務めていただいているOさんに
戦争中のことをお聞きしました。

Oさんは愛知一中(現旭丘高校)の 陸上部だったということで、
85歳の今も、若々しく、元気はつらつ。

「愛知一中」というと、昨年でしたか、NHKでも紹介された
「予科練総決起事件」があった学校です。

昭和18年7月、校長や教師らが「国家の危急存亡の時」と
生徒の愛国心を炊きつけたことで、3、4年生の生徒全員が
「海軍の飛行予科練習生」への志願を決め、校長に提出した。

これに あわてたのは親。一中は名古屋でもエリートが集まる
学校でした。親としてみれば、わが子は「末は博士か大臣か」と
期待していたのに、一兵卒として散るだけの「特攻」に志願する
というのですから、止めたいけれど、時節柄、正面きっては
口にできない。

当時の新聞はこの事件を「快挙」と賛美した。しかし、親の
必死の説得で、結局 約700名中 56名が入隊し、3人が
戦死した。


さて、Oさんは 大阪の陸軍幼年学校に入隊。そこで終戦を
迎えます。8月15日、終戦の玉音放送を、炎暑の中、
制服制帽に身を正し、校庭に直立不動して聞かされますが、
内容は聞き取れず、「もっと頑張るように」と激励の勅諭かと
思っていると、「直ちに解散」の命令。

「幼年兵も 米軍が進攻してくれば 捕えられ殺される」と
言うので、国民服を泥につけて(わざと汚して)、きのみ
きのまま名古屋行きの汽車に乗った。大阪から名古屋までの
汽車には引き揚げる海軍の兵隊さんがたくさん乗っていて、
彼らは、缶詰などの食料をふんだんに持っていた。

家に帰ってみれば、栄の一等地にあった「履物店」は
空襲で跡形も無し。「両親は死んだか」と思って あきらめ
ていたら、闇市で再会したと。


そこで、昨日 観た『少年H』の疑問点について聞いてみました。
やはり、中学校で、正門に、中学生が銃を構えて歩哨に立つ
ということは無かった。中学校での実弾訓練も無かった。
配属軍人が腰に下げていた短剣でさえ、木刀だったと。

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