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平成の虚無僧一路の日記

尺八が悪いのか、吹く曲が悪いのか 

2013年08月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ホフマンが言うように、「尺八」という楽器をコップに例えれば、
「尺八」を流行らせるには、中身(演奏する曲)を何にするかだ。

かつて尺八は、一般的には、虚無僧の持つ道具か、地歌筝曲や
民謡の伴奏のための「道具」という認識だった。

私が尺八を始めた60年前は、「尺八は“楽器”なんて卑しいもの
ではない。外人には吹けない、日本人ならではのもの」と、
尺八の大家がのたまわっていた。テキストにもそう書いてあった。

今でも、虚無僧尺八の信奉者にとっては“修行のための法器”であり、
普化禅師の振る鐸の音を模す法具として“虚鐸(きょたく)”と
称されている。

私自身も、尺八でドレミファが吹けるなんて思いもよらなかった。
実際、昭和30年代までの尺八は音律など不正確だった。

それが、堀井小二朗師に「尺八は楽器だよ」と言われた時は
衝撃だった。そして昭和39年には、「日本音楽集団」や
「三本会」が結成され、尺八は“楽器”として華々しく登場する
こととなった。

あれから40年。「藤原道山」氏はじめ、尺八で あらゆる曲を
吹きこなす若手奏者はどんどん出てきている。

だが、それを聞いても、感動して、尺八を習おうとする人は、
昔ほどはいないのは なぜだろう。

尺八の音色、表現力はすばらしいと解っても、吹きこなすのは
“むずかしい”と倦厭されるのだろうか。リコーダーのように、
誰でも吹けば音が出るような吹き口も考案され、売られている。

それさえ 広まらないのは、尺八で吹かれる「曲」に魅力が
ないのか。馴染みがないからか。ならば、幼稚園、保育園、
小中学校で、尺八を聞く機会をもっと増やせばいい。

そうか、昔ほど、その子供たちが居ないのだ。ヤマハでも
ピアノを習う子供が減り、ピアノが売れずに困ってるようだ。
広まらないのは 尺八だけでない。洋楽器も同じ。

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