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伊藤博文記念館 山口県光市 

2013年08月28日 外部ブログ記事
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    伊藤博文記念館

 

旧伊藤博文邸(山口県指定有形文化財)

明治42年(1909)博文は遠祖・林淡路守通起の没後300年の法要を行うための別邸をこの地に建設するように命じ、同年10月14日に満州(現在の中国東北地区)へと出発しました。
 
しかし、同年10月26日にハルピンで狙撃を受けて死亡し、完成した別邸を見ることはできませんでした。
 
その別邸が、現在「旧伊藤博文邸」として保存されています。

                     内部

 

                 伊藤博文公像

               
 伊藤公資料館
伊藤公資料館は、初代内閣総理大臣・伊藤博文の遺品等を展示して博文の業績を紹介するとともに、幕末までの日本の動きを学習する場として開設されました。    
鉄骨造平屋建534.36平方メートルの本館の外観は、
レンガ造りの明治風建築となっています。       
また、生家と旧伊藤博文邸の間に位置することから、「利助(博文の幼名)と博文を結ぶタイムトンネル」といった要素も持たせています。                  

 
伊藤博文生家(復元)
伊藤博文公(幼名・林利助)が6才まで過ごした家を復元しています。


家の裏には、産湯に使ったとされる井戸や、幼年期に遊んだイチョウの木が現在も残っています。

周防国熊毛郡束荷村字野尻(現 山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(後に重蔵)の長男として生まれる。
母は秋山長左衛門の長女・琴子。家が貧しかったため
12歳ごろから奉公に出されたという。
 
父・十蔵が長州の蔵元付中元・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1584)に周防国佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文父子も足軽となった。
 
 百姓だった頃の暮らしぶりが再現されています。

 


当時大磯には伊藤をはじめ、政治家の別邸が立ち並んでいたが、土地には伊藤の人柄について次のような逸話が残っている。
 
「山縣は護衛の人が付き、陸奥は仕込み杖をもつて散歩するが、伊藤博文は、平服で一人テクテク歩き、時には着物のしりをはしょつた姿で出歩き、農家に立ち寄り話しかけ、米の値段や野菜の価格なども聞き、暮らしのことなども畑の畦に腰掛け老人相手に話すことがあった。村の農民や漁民などは伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んで、話しかけた。」
 
伊藤博文一行と韓国の皇太子とが大磯の海岸で遊ぶ
映像が資料館で見られます。
 
ステッキをついた飄々としたじいさんで海に石を投げたりしています。
 
藁葺きの百姓家で生まれながらも、豪勢な別邸を建てるまでに至った伊藤公の生涯は愚かな朝鮮人によって
終焉となりました。

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