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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧寺は寺にあらず。 

2014年02月20日 外部ブログ記事
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虚無僧は本来、牢人者の生計(たつき)を得る手段。
「物乞い」だが、元は武士だからプライドもあって
「乞食」とは一線を画して「門付け(かどづけ)」と
言った。

仏教思想の中に、貧しい人、困っている人に施しをすると
「徳積み」になるというのがある。乞食や托鉢僧、虚無僧、
巡礼者に布施をすれば、心が明るくなる。乞食や托鉢僧、
虚無僧は「徳積み」をさせてもらう対象として存在する
価値があった。

ちなみに、江戸時代初期まで「浪人」は「牢人」と
書いた。特に「牢屋」につながれた犯罪人ではない。
だが、「牢人」とあるので 誤解をしたのか、ネットでは
「虚無僧は武士で罪を犯した人。虚無僧になれば罪が
許された」などと説明したものがあるが、とんでもない。
そんな決まりも実例もない。

『徒然草』に「ぼろ(暮露)」を「世を捨てたるに似て
我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす」と喝破されて
いるように、「仏道修行」は方便。

ところが、不思議なことに、日本人は「破戒僧」を
容認する風潮がある。「破戒僧」といえば「一休」。
「一休とんち話」は、仏教批判の庶民の心の反映だ。
弁慶が 法体でありながら、薙刀を振るって人を殺す
のにも拍手喝采を送る。

『徒然草』でも、「ボロ」は「放逸・無慙の有様なれども、
死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて」
と、二人のボロが争って、殺しあったことにも賛辞を
送っている。

であるから、「乱暴狼藉者の虚無僧」でも 江戸時代は
容認されてきた。


「虚無僧寺」とは言っても、正式の認可を得た寺でない。
多くは無頼の輩の溜り場。正規の僧ではないから、葬式も
執り行えず、墓地も無い。そこで「虚無僧」も亡き後は
近隣のしかるべき寺に葬ってもらわねばならない。

現在、「虚無僧研究会」を引き受けていただいている
新宿の「法身寺」は、そうした寺で、墓地内に虚無僧の
墓があるというご縁。虚無僧寺ではなく、れっきとした
臨済宗のお寺。

京都の「明暗寺」は、江戸時代の初め、牢人狩りで
出頭した虚無僧に、京都所司代が情けをかけ、「妙法院」の
裏山に、わずか45坪の土地を借りてくれ、建てられた。
「妙法院」の敷地内だから、当初は「妙安寺」だった。

それが、幕府の「キリシタン改め」にからんで、法統を
明らかにする必要に迫られた。

「妙法院」は、天台宗の名刹。虚無僧寺の元締めにはなって
くれそうにない。そこで、京都から離れた紀州由良の興国寺に
本山の引き受けをお願いした。

京都明暗寺から興国寺に「末寺証文」を提出したのは、1703年
(元禄16)。江戸時代も半世紀過ぎた頃。赤穂浪士事件の後。
興国寺は、当初無視していたが、明暗寺側から「看主は、興国寺で
得度受戒を受けること」と「毎年上納金を納める」との条件提示で
2年後の1705(宝永二)年に了承した。

ところが、これには、臨済宗の大本山「京都の妙心寺」が
異を唱えた。「明暗寺が興国寺の末寺になったらしいが、
こちらの末寺帳には載っていない。どういうことなのか」と
詰問している。これには「何か関係があったようだが、史料は
焼失して不明」と答えている。

その後、明暗寺は、毎年の上納金も納めず、看主が得度受戒を
受けるということもせず、つまり約束を守らず、「本寺末寺」の
関係は自然解消している。

ずいぶんいい加減なことですが、江戸時代というのはそういう
時代だったのでしょう。寛大、寛容の精神ですな。


そうそう、名古屋名物「鍋焼きうどん」の店「山本屋」は、
どこの支店も「山本屋本店」と掲げている。チェーン店だが、
全部本店。

名古屋栄にある「三越」は「三越本店」とうたっている。
「三越」の本店は、東京の「日本橋店」のはず。これは、
三越に吸収される前の「オリエンタル中村」当時、名東区の
星が丘店に対して、栄を「本店」と呼んでいた名残り。
東京から来た人は「名古屋が三越の発祥の地かと」勘違いする。

老舗のお菓子屋など、「元祖」とか「本舗」などという呼称を
使っているが、誰もその真偽は問わず。そんな寛容さが日本の
ファジー(あいまいさ)な文化と思って、許されたし。

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