メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

「お富−於大−多劫」 母娘三代 

2014年04月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



【華陽院・お富・お満とも】

竹千代(後の徳川家康)が、今川への人質として 駿府にあった頃、
陰日向(かげひなた)になって面倒をみてくれた人がいた。
家康の母「於大」の生母「華陽院・お富」。つまり家康の祖母。

この「華陽院・お富」の生涯も、戦国の倣いとはいえ波乱万丈。

はじめ、刈谷城主「水野忠政」に嫁いで「水野忠重」や「於大」ら
3男1女を生む。ところが、「松平清康」(家康の祖父)が横恋慕して、
奪い取る。講和の条件として譲り受けたとも。

その「清康」が24歳で家臣に殺されると、その後は、星野秋国、
菅沼定望、川口盛祐といった諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも
夫に先立たれている。その後、駿河の「今川義元」を頼って駿府に
入り、尼となって、孫の「竹千代」の世話をする。


【於大の方】

 「松平広忠」との間の子が「徳川家康」
 「久松俊勝」との間に三男三女
   1松平康元
   2松平康俊
   3松平定勝
   4【多劫姫】「松平忠正」に嫁ぎ、後に弟の「松平忠吉」「保科正直」に再々嫁
   5 松姫  「松平康長」夫人
   6 天桂院 「松平家清」夫人


【多劫姫】

1553年の生まれ。初め「松平忠正」に嫁ぎ、「家広」を産んだ。
天正5年(1577年)に夫が死去したため、その弟「忠吉」に再嫁した。
この時、24歳。「忠吉」との間に2子(松平信吉、松平忠頼)を産む

その「忠吉」も天正10年(1582年)に死去し、天正12年(1584年)
保科正直に再々嫁する。この年31歳。そして2男4女を産む。

 
「松平忠正」との間に「松平家広」
「松平忠吉」との間に「松平信吉・松平忠頼」
「保科正直」との間に 2男4女

 1 保科正貞
 2 北条氏重
 3 大涼院(黒田長政継室)
 4 清元院(安部信盛室)
 5 貞松院(小出吉英室)
 6 高運院(加藤明成室)の

元和年(1618年)65歳で亡くなった。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ