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平成の虚無僧一路の日記

浜松城主「松平忠頼」から「水野重仲」へ 

2014年04月13日 外部ブログ記事
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浜松城主となった「桜井松平家」の当主「忠頼」は、
慶長14年(1609)、江戸で旗本同士の喧嘩の仲裁に
はいさて殺され、お家断絶となります。27歳でした。

それで「牧原」の祖は 一時的 浪人になります。

その後、浜松城主となったのは、「水野重仲」でした。
水野重仲は、家康の母「於大」の実家の系統であり、
家康に重用されたのですが、それが裏目にでます。

身内ですから、家康の十男「頼宣」の「傳役(でんやく=子守)」
となります。養育、監督役ですから重要な職です。

1603年、「頼宣」は2歳で「常陸水戸20万石」を与えられます。
しかし、家康は「頼宣」を駿府の自分の膝元に置き、実際は、
「水野重仲」を派遣して、佐竹氏の後の常陸の統治を任せます。
この時の常陸時代の家臣に「牧原・平石」はいません。

その後 1619年、「頼宣」は、常陸水戸から紀州和歌山に
転封となります。この時、「水野重仲」は「付け家老」として
新宮城主となります。この時、浪人していたわが先祖も
採用され、新宮に移住するのでした。

水野の家臣にしてみれば、主君が 新宮城主とはいえ、
紀州徳川の「家老」になってしまったのですから、
その家臣は「陪臣」「又家来」といって、身分的には
一段低くなります。

わが祖先は「陪臣の身では将来が無い」と悲観して、
当時、新設された「会津保科家」に、わが子(15歳)を
小姓として上がらせたのでした。先見の明です。

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