メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

短編私小説 『安達太郎(あだたら)残照』 

2014年06月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



短編私小説です。

『安達太郎(あだたら)残照』

 東北本線で郡山から福島に向かう途中、二本松を過ぎる頃。
祐一郎は左手奥に連なる山々を眺めていた。

 すると「あれが、会津磐梯山かぁ?」と、後ろの席でつぶやく
男の声が聞こえた。ここからは、磐梯山は見えない。
「いや、あれは、安達太郎山(あだだらさん)ですよ。ほら、
『あれが阿多多羅山(あだたらやま)、あの光るのが阿武隈川』
って、高村光太郎の『智恵子抄』に あるじゃないですか」。
と、言っても、後ろから応答はなかった。自分の思い込みを
否定されてムッとしたのだろうか。『智恵子抄』を知らなかったの
だろうか。昔なら、こうして旅は道ずれ、会話を楽しんだものだが、
きょうび、見ず知らずの人との会話は続かない。余計なことを
言ったと、裕一郎は後悔した。

安達太郎山を見ながら、祐一郎は 30年も前の思い出に
ひたっていた。 裕一郎は、中学の頃から 毎年 夏と冬の休みには
安達太郎山の山麓にある沼尻温泉に 絵を描きに行っていた。

 冬はスキーもできる。ここはスキー場としては古く、日本で
最初にジャンプ台が作られたという由緒あるスキー場だったが、
交通の便が悪く、穴場で、比較的すいていた。

 祐一郎が 毎年、夏冬に訪れるのには、もうひとつ理由が
あった。おめあては、温泉宿の娘 ○○子さんだった。
といっても、初めて会った時の彼女はまだ小学生。毎年、
夏冬に訪れるたびに、成長している様子が楽しみで、その時々の
顔をデッサンした。

 毎年行って 何日も逗留していたから、もうすっかり家族同様の
待遇で、食事も一緒だった。

 安達太郎山は 標高 1,700m。活火山で江戸時代以前から硫黄の
採掘が行われていた。それが 明治33年(1900年) 、沼の平で
水蒸気爆発が起こり、死者72名という惨劇が起きた。であるから、
30年前は、まだお釜から噴煙が上がっていて、硫化水素ガスも出、
近寄ると危険な場所でもあった。
 
 祐一郎は 絵になる風景を求めて、周辺の山々や沼を散策した。
そこに彼女も着いてきた。2人でスキー場のジャンプ台の上から
見た景色は忘れられない。幾重にも重なる山ひだの向こうに
会津磐梯山が浮き上がっていた。


 そして、祐一郎が高校2年、彼女が中学2年の時。二人で
「安達太郎山に登ってみよう」という気になった。沼尻から登れば、
そうたいしたことはないと、タカをくくっていた。食料も着替えも
持たずに散歩気分だった。

 ところが、山頂で深い霧に包まれ、帰る道がわからなくなった。
山頂付近は 乳頭山とも呼ばれるように、がれきの石ばかりが
高く積み上げられていたから、山頂に立つと、360度 どちらに
下りたらよいのか 皆目判らなくなってしまったのだ。磁石も
持っていなかった。山頂から蚊取線香のように、グルグル周り
ながら、おそるおそる下りた。五里霧中とはこのことかと思った。
霧はやがて 細かい雨になった。林の中を道を求めてさまよった。
当時、携帯もない。やがて陽が暮れる。漆黒の闇で、足元も
見えない。岩陰に身をひそめて朝を待つしかない。二人肩を
寄せ合って時を過ごした。

 祐一郎は、知っている限りの話を彼女に話して聞かせ、時を
過ごそうとした。二本松少年隊のこと、昔、二本松藩と会津藩が
安達太郎山の硫黄の採掘を巡って争ったこと。

 朝4時頃から空が白みはじめる。うす明かりの中、どこを
どう通ったか 覚えがないが、ようやく宿に帰りついた。
皆が寝静まっているうちに、もぐりこもうと思っていたが、
どっこい、彼女の両親も一睡もせずに 夜を明かしたとみえて
憔悴しきっていた。大目玉はくらわなかったものの、心配と
怒りが身体からみなぎっていた。

 このことがあって、私は気まづくなり、沼尻には行かなく
なった。それから2年後。私は大学生になっていた。5月の
ことだった。新聞の片隅に載ったニュースに足が震えた。

「秋元湖の奥で、若い女性の遺体が発見された」という記事。
「女性は1月から行くへ不明になっていて、5月雪解けを待って
探しにきた父親が発見した。そこは秋元湖にそった林道で
行き止まりの道だから、人が通ることはめったに無い」
とのこと。どうして、そんなところに迷いこんだのだろう。
自殺だったのか。そういえば「死ぬなら雪山がいい。人
知れず、きれいに死ねる」というようなことを私は彼女に
語ったことがあった。

 自殺か事故死か、自殺ならなぜ? 私は一生この責めを負う
ことになる。その年の冬、私は死ぬ覚悟で、秋元湖の湖岸の
雪道を歩いた。彼女が死んだ場所はどこだろうか、ここだろうか。
雪の中を 一晩さまよい歩いたが、自分は死ねなかった。
こうして、30年を悶々と生きた。

 30年経って、福島からレンタカーを借りて、吾妻・磐梯
スカイラインを通って 沼尻温泉に向かった。新たにドライブ
ウェイが出来、人跡未踏の原始林の中を 車で突き抜ける。

はて、沼尻温泉宿はこの辺だったはずだが。何度も
通った温泉宿だが、道がすっかり変わっていて、思い
だせない。途中「横向ロッジ」が廃墟になっていた。
そこから辿って、ここだろうかと思うところに、宿は
なかった。跡形もなく消えていた。

 あきらめて、名古屋に帰り、家でくつろいでいると、
ピンポーン。「こんにちは、ヤクルトです」
「やっ!来ると思った、ヤクルトおばさん」なんて冗談
言って迎えた彼女、笑顔がステキ。名札を見ると「○○○○○」。
彼女と同姓同名。顔も彼女に似ていた。私の初恋が今
老いらくの恋となって甦る予感。

 「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川
  あなたと二人静かに燃えて 手を組んでゐる よろこびを、
下を見てゐるあの白い雲に かくすのは止しませう」

彼女と口ずさんだ『智恵子抄』の一節。また口にする。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ