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朱鷺の“人生七転び八起き”
「自分」を自分で見る
2014年06月10日
テーマ:テーマ無し
人のことは、いろいろと思うし、言うことが出てくるんですね。まったくもって「自分のことは、さておき」となってしまうのが、私達なのですね。どこまで行っても、相手は、自分の鏡・・・観ているのは自分なのです。「相手が、こういうことをしている・こういう状態だ」と思うそのことは、自分自身なのね。相手にカベがあるから人を受け入れようとしない・・・と思うようなことがあってガードが固いぜ〜と感じる。そんなとき相手に「ガードを下げろ」と言いたいなら、自分のガードを下げる。それだけで、ガードの問題は、解決しちゃうのね。相手に下げさせたいから、解決しないんです。そんな簡単なことなのだけれど、やってみれば分かるんだけど、しないのね。もう〜あらゆるトコロに、その手のパラドックスは、あるのね。しかし、このような構造がなければ、私たちは、本当の意味で「自分を見ること」ができない。ただし、自分を見ていると気づかなければ、それに、なんの意味がない〜となりますが。それで気が付いたのだけれど〜「自分のドッペルゲンガーを見たら死ぬ」という話があります。似ていると思いませんか? 自分で自分を見たら、その瞬間に「自分は死ぬ(消える)」んです。・・・自分と思い込んでいた自分が。「消える」「死ぬ」というのも象徴。自分に、こだわらない状態ってこと?昔から、ソレを示唆する言葉が、本質(意味)を隠して残されているんじゃないかな。その意味に気づくと、様々なものがシンクロしされて顕れる。いろいろな処にね。智慧のタネというか。隠れている。
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