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人生いろは坂

生きていること 

2014年06月12日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 何気なく窓の外を眺めていると、心はいつしか遠い昔へと戻って行きます。ぼんやりと眺めている景色が遠い昔や、いつか
訪ねたことのある景色に何となく似ていたりと言った経験が皆さんにはないでしょうか。私の場合、多くは旅行先で感じた
何とも懐かしい風景であったり、あるいは日本ではめったに経験することのなくなった澄んだ青空と、その下に広がる景色
だったりするのです。

 そして、その記憶は目にしたものや音だけでなく鼻で感じた匂いだったりするのです。その代表的なものが野ばらの匂いです。
かぐわしく爽やかな野ばらの匂いは幼いころの遊び場であったり、川の堤防やその周辺に広がる田舎道だったりするのです。
むせ返るような日差しの中でミツバチたちが群れ飛びながらせっせと蜜を巣に運んでいく。そんな何とも穏やかでのんびりした
何気ない田舎の景色なのです。

 先日もテレビを見ていたらブータンの田舎を尋ねたNHKの若いアナウンサーが懐かしい景色だと言った言葉が妙に印象に
残っています。恐らく、若い世代の人達が感じようにも、そのような景色に出くわすことがないはずなのに何故そのような
言葉が出たのでしょうか。不思議に思いました。恐らく、その若者自身の経験にはなくても私たち日本人の、いや世界中の人も
同じかも知れませんが、私たちの遠い祖先が野山を駆け回り生活の糧を探していた頃の記憶がDNAとして残っているからかも
知れません。でなければ私たちの世代でさえ幼いころの印象にしかなかったような田舎の記憶などないと思われるからです。

 現代人は日々の慌ただしさの中で一日中のんびり過ごすなどと言うことが少なくなりました。特に都会などに住んでいると
皆無に近いのではないでしょうか。さほど忙しくしなくても良いはずの環境にいても何かしら気ぜわしく過ごすことが多く
なりました。

 何故なのでしょう。生活をすると言うことだけを考えてみると、食べて寝るだけで一日を過ごすことが出来ます。しかし、
私たちは何となく忙しく感じ、事実忙しくしています。まるで幼いころの時間と今の時間には同じ一時間でも大きな差がある
ようにさえ感じます。

 豊かな生活を求めるあまり私たちは私たちが持っている時間の大半をその生活のために使うようになってしまいました。
一方の豊かさを求めるあまり一方のかけがえのない貴重な時間を削らなければならなくなっています。何と言う皮肉な事でしょう。

 かのアマゾンの奥地に住んでいる裸族であるヤノマミ族の人達は一日の大半をおしゃべりや昼寝や儀式などのために使って
います。その間に食べるものを得るために時間を使うと言う、私達の生活とは全く逆のパターンです。私たちは蔑むような目で
彼らを眺めますが、果たしてどちらが本物の生き方なのでしょうか。彼らの間での争い事は少なく、ましてや日常茶飯事のように
報道される殺人などは皆無です。明るくなれば起き出して一日が始まり、暗くなれば寝ると言った生活のパターンに無駄は
ありません。私達のように必要以上に無駄なエネルギーを使うことはありません。

 私たちの生活がそうであるように、私たちの生活の基盤となっている経済と言うものは本当に必要なものなのでしょうか。
今の経済は発展が当たり前になっています。会社であれば前期の実績が基盤になって、その実績に上積みが常に求められます。
売り上げも利益も右肩上がりが前提になっています。

 しかし、全ての経済活動の基礎となっているエネルギーや資源は有限です。無尽蔵ではないのです。それを考えると永久
エネルギーのようなものが登場しない限り、どこかで破たんすることは間違いありません。実は気が付いていないだけで
すでに随分と以前から破たんしているのです。それが資源を獲得するためになりふり構わぬ行動をとっている中国の姿では
ないでしょうか。

 日本の何倍と言う国民に消費と言う経済の根底にあるものを満たすために躍起になっています。しかし、その消費の基盤に
なっている資源は有限なのです。いつまで今のままの経済発展を続けることが出来るのか多分に疑問が残ります。そして、
インドやインドネシア等が後に続いています。これらの国々の首長は政権基盤を維持するには資源獲得が至上命令となっています。
経済発展のために猛り狂う国民を如何になだめるかは一重に資源を獲得し経済発展を停滞させないようにするかを問われている
のです。大変しんどい話です。そして一つかじ取りを誤れば地獄を見ることになりかねません。

 もっと早く、世界中がこの悪のスパイラルのような経済のあり方を考え直すべき時に来ています。人間が自然の一部として
生きていた頃は八百万の神々を敬い、人間も自然の一部として生きてきました。この世に生まれてくることも生きていくことも
やがてこの世を去ることも途切れることのない時の流れとして受け止め、神や仏を敬うと言う精神世界に生きてきました。

 そして19世紀、ヨーロッパに始まった産業革命は止まることのない物質世界、科学万能の世界を浸透させ、開発と称して
地球を破壊し汚し続けてきました。私の思い出に残る田舎の澄んだ空気や土や水は失われてしまったのです。どんな山中も
田舎も一緒です。汚れた雨は場所を選ぶことなく降って来るからです。汚れた空気も風となって世界中を駆け巡っています。
例外など、この地球上のどこにもなくなっています。

 今や「ノアの洪水」のように全てを消して禊(みそぎ)をしなければならなくなってしまいました。物質万能の世から
再び精神世界に重きを置くような時代へと回帰が求められているのです。子供の頃の穏やかに時が流れ、澄んだ空気と
澄んだ水、豊かな大地。そして、かぐわしい匂いの野ばらが咲き乱れる原っぱへ、心はいつしか遠い過ぎ去った子供の頃へと
飛躍していくのです。

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