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『清濁併呑』で日本独立 

2014年09月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



吉田 茂元総理

日本の外交官、政治家で、東久邇宮・幣原内閣で外務大臣を務め内閣総理大臣に就任しました
優れた政治感覚と強いリーダーシップで、戦後の日本を独立させ、日本の礎を築きました
外交官のセンスで『清濁併呑』米国と渡り合いサンフランシスコ講和条約を調印しました
優秀な内閣総理大臣(佐藤栄作・田中角栄・安倍晋三?)の一人で、再登板した首相は、吉田と安倍晋三の2人です
















吉田茂(ネットより引用)


サンフランシスコ講和条約の背景
日本(吉田)は、賠償金・再軍備無しで、負担少ない条件で独立したい(復興の為に経費使いたい)
占領国米国は、独立後の日本を自由主義の国家に引き込み、米国の為に日本に再軍備して欲しい
米国の見解は、米国が占領を止めれば、日本は国家として、国を守る軍隊が30万人必要
米ソ冷戦時代で、共産主義が韓国まで及んでおり、朝鮮戦争が始まりました

サンフランシスコ講和条約の妥協点
日本(吉田)は、警察保安隊5万人(自衛隊)設立と、独立後日本の一部の地区の米国軍隊の占領を認めた(日米安保条約)
米国は、戦争賠償金要求を多くの国と交渉し無しにしました(韓国等一部アジアの国を除き)
結果として日本は、負担金少なく独立出来、戦後の素晴らしい復興に結びつきました
米ソ冷戦・朝鮮戦争等日本の独立を促す背景が多数有りました

サンフランシスコ講和条約署名
サンフランシスコ講和条約を49ケ国と結び、日本国とアメリカ合衆国との間で『日米安全保障条約』も結びました
国内では全面講和論の支持者少なく、吉田は政治生命を賭けて講和条約の調印に臨みました
日本は、吉田を首席全権とする全権団を派遣(六人全員で署名)
その後、日米安全保障条約は、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るため一人で署名しました
その考えが、佐藤栄作首相の沖縄返還交渉に生かされたのと思います

吉田茂外交官時代
米国在住が花形の時代、吉田は外交官として20年間中国大陸で過ごしています
中国における吉田は、軍部よりも強行に満州における日本の合法権益を主張しました
外交的には、覇権国英米との関係を重視し「親英米派」でした

内閣総理大臣就任(選挙を経ないで就任)
自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任
父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてです
吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって、首相官邸を襲撃されました

第2次、3次吉田内閣
衆議院議員総選挙で、自由党が大勝し、第3次吉田内閣を発足
破壊活動防止法と成立と公安調査庁、内閣調査室を設置(アメリカでは赤狩り旋風)
汚職事件(造船疑獄)では、検事総長に佐藤栄作の逮捕を延期させ、戦後唯一の指揮権発動しました
結果内閣総辞職(日本で5回内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂だけです)

吉田茂へ天皇の思い(尊皇家・臣茂 )
昭和天皇が戦争責任の退位の申しで、国民への謝罪の意を表明も吉田が止めました
昭和天皇に自ら「臣茂」と称し、「時代錯誤」とマスコミに批判さ、「臣は総理大臣の臣だ」とやり返しました

吉田学校・ワンマン体制
政党政治家の多い自由党内で、官僚出身者を中心とした吉田学校と呼ばれる集団を形成しました
吉田学校のメンバーと、大野伴睦らのベテラン政党政治家を組み合わせ、党内を掌握し「ワンマン体制」を確立
主な人物として、佐藤栄作・池田勇人・田中角栄で、戦後保守政権の中核を担う保守本流を形成しました

マッカーサーとの関係
吉田とマッカーサーと、マッカーサーが日本を去るまで親密でした
吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」マッカーサーに対して「よき敗者」としてふるまいました
復興した日本、東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしましたが、マッカーサーはオリンピックの半年前に死去しました

吉田茂の多数の逸話の一部
地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」
佐藤栄作が内閣総理大臣頃、吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、上座に座らせ「佐藤君」ではなく「総理」と呼びました
吉田の容態が芳しくない時、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなりました
落語が好きで、六代目春風亭柳橋を贔屓にしており、孫の麻生太郎は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行きました
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