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熊野神社・別府神社 (山口県小野田市) 

2014年09月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

          熊野神社(小野田市)
   でかい看板  霊験日本第一なのだ
   中央あたりの看板は別府神社のもの

祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)須佐の男の命(すさのおのみこと)などを祀
 
社殿近くの菩提寺山の滝は「九重の滝」と呼ばれ、その水は難病奇病に霊験あり「熊野の御霊水」として全国に広く知られ、やたがらす鈴と称する交通安全のお守りとともにご利益が有名。          看板の所から2キロ弱位

          小さな神社でした。
        参拝者がチラホラ
  奥には磨崖仏などがあるらしいです。

結構賑わっているようで大きな社殿建築中です。

 
    別府八幡宮
主祭神
誉田別尊(応神天皇)
帯中津日子命(仲哀天皇)
息長帯姫命(神功皇后)


別府八幡宮」の「別府」は、創建の祖である和気清麻呂公の別名に由来する。
 宇佐神宮神託事件の折、僧道鏡とこれを寵愛されていた称徳天皇の怒りにふれた清麻呂公は、大隅の国に流罪となっただけではなくその名前を「別部穢麻呂(ワケベノケガレマロ、又はワケベノキタナマロ)」と改名させられた。
 この改名後の別名に因んで当社は創建当初「別部八幡宮(ワケベハチマングウ)」と号していたものが、次第に「別部」の読みが「ワケベ」から「ベツブ」に転じ、さらにこれが訛って「ベツブ」から「ベップ」となり、これに伴いその漢字も「別府」が当てられるようになり、現在の社号「別府八幡宮」となったと伝えられている。           別府八幡宮HPより

当社は神護景雲四年(西暦770年)、和気清麻呂公よって豊前国(現在の大分県)の宇佐神宮より勧請されたことを創建の始めとする。
 僧道鏡の企てを阻止した宇佐神宮神託事件の折、野望を挫かれ憤激した道鏡により大隅国(現在の鹿児島県)へ流されていた和気清麻呂公は、道鏡の失脚後罪を解かれ勅命を受け京に召還されることとなった。
 しかし海路帰京の途中、清麻呂公の船は嵐に遭ったが為にこれを避けて有帆の入り江(当時有帆の地は海に面していた)に船を寄せた。そしてこの地にて宇佐神宮の御霊代の御幣を松の木に掛け八幡神に祈ったところ、たちまちのうちに嵐は鎮まったという。
 そこで清麻呂公は「我今ここに八幡宇佐宮を勧請奉る。依りてこの郷の神とせよ」と仰せられ、御神威に驚嘆した民衆により社が建立されたという。
 爾来千二百年以上の歴史を有する、当地方最古の古社である。

 古来、厚東・大内・毛利氏の崇敬篤く、厚東氏は代々の祈願所として社領を寄進し社殿を改築。大内弘世は永和二年(1376年)本殿を造営しており、現在本殿西側にある旧本殿がこの建物であると伝えられている。
 その後も寛文八年(1668年)に榎本就時は社殿を修復、現本殿東側にある旧拝殿は天保八年(1837年)毛利氏により改築された。
明治十三年(1879年)には現本殿を造営し、昭和五十七年(1982年)に現幣殿・拝殿改築し、近郷に誇る壮麗な社殿を整備し、今日に至っている。 別府八幡宮HPより
          立派な拝殿 本殿

 

文政四年(1821)の浪速型


  吽          阿  

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    拝殿 昭和五十七年(1982)造営

     本殿 明治十三年(1879)造営

           本殿の細工

本殿東の旧拝殿 天保八年(1837)毛利氏により改築された。

本殿後から見た旧拝殿

          本殿西の旧本殿?
大内弘世は永和二年(1376年)本殿を造営しており、現在本殿西側にある旧本殿がこの建物であると伝えられている。

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