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平成の虚無僧一路の日記

「尺八を尻で吹く」という話は 

2014年12月01日 外部ブログ記事
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「名古屋叢書」に載っている「伝治が尺八を尻で吹いた」というのと似た話が
三浦浄心(1565-1644)著「慶長見聞集」(巻6) にある。こちらは 侠客「大鳥逸兵衛」。
「一兵衛」「逸平」 とも。(1588年 - 1612年)
慶長(1596〜1615年)の頃、江戸市中を徒党を組んで のさばり歩く
“かぶき者” のグループがあった。現代の暴走族だ。そのグループの一人が
“かぶき者”であることを理由に 店から解雇されたことで、仲間がその雇い主を
襲撃した。その事件で、リーダーの大鳥逸平が捕まった。 「襲撃事件のメンバー
の名前を言え」と、拷問にかけられたが、彼は、絶対に口を割らず、取調べは
何日も続いた。 そんなある日、彼は、役人に向かって 「面白い話を聞かせて、
役人さん方の眠気を さましてあげましょう」と、しゃべり始めた。

「我 武州八王寺の町酒屋に有て 酒を飲みしに、虚無僧 壱人 尺八を吹いて
門に立ちたり。我この者を呼び入れ、〈あら ありがたの修行や、御身 ゆえある人と
みえたり、世におち人にやおわすらん〉と、酒をもてなし、〈この一兵衛も 若きころは
尺八を吹たり、虚無僧の尺八一手望み也〉といえば、此の虚無僧、曲一手 吹たり。
我(逸兵衛) 聞きて打笑い、尻をまくり上げ尻をうちたたき、〈貴殿の尺八ほどは、
われ、しり(尻)にても吹くべし〉といえば、虚無僧 大きに腹をたち、〈 無念至極の
悪言かな。我 いにしえは 四姓の上首(武士)たりといへ共、今は世捨人となる。
然れども 先業をかへり見、貧賤を なげかずして 仏道の縁に取付、空門に思ひを
澄まし、内に得るところなく、外に 求むるところなく、身を安くして 普化上人の跡をつぎ、
一代教門の肝要、出離・解脱の道に入、修行を はげますといへ共、悪逆無道の一言に
われ、瞋(しん)の炎やみがたし。姿こそ替れども、所存において替るべきか。
是非尻に吹かせて聞くべし〉と言う。
この一兵衛も、〈尤も、しりにて吹くべし〉といへば、お互に 賭け物をこのみしに、
虚無僧 云ひけるは、〈親重代 伝はる 吉光の脇ざし一腰持たり 〉とて座中へ出す。
一兵衛も 〈こしの刀を出すべし。此の刀と申すは、われ、下原鍛冶を頼み、
三尺八寸の いか物作りに 打たせ、 “二十五まで いき過たりや、一兵衛” と
名を切付、一命にも かへじと思ふ一腰を出す。
町のもの共 両方の 賭ものを預り、〈一兵衛が尻にて吹く尺八を聞かん〉と云ふ。
其時 一兵衛、虚無僧の尺八を 取って さかさまに取りなおし、(管)尻にて吹きければ、
皆人聞きて、〈実に虚無僧の口にて吹きたるより、一兵衛が尻にて吹きたるが
増りたり 〉 といへば、我(一兵衛)、此のあらそひに勝たり」。
 
『武蔵名勝図会』(1820年代)によれば、1612年(慶長17年)春、高幡不動尊での
相撲興行に現れた際に捕縛され、江戸幕府に突き出された。
同年8月(慶長17年)、品川・鈴ヶ森刑場で磔刑に処されて死去した。享年25。
 
さて、この話から、江戸時代初期には、浪人者で虚無僧になった者の他に、
侠客も尺八を吹いたことがわかる。歌舞伎の「白波五人男」や「助六」も尺八を
背中に携えている。
 
 

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