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Jii−Jiiの日記

拝むとは拝まれて居た事に気付き醒めること 高光大船 

2015年02月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



(解説)
阿弥陀如来の本願に出遇い、阿弥陀如来のお慈悲につつまれて、お念仏を申しながら合掌礼拝させていただく、それが信心決定の姿といえましょう。阿弥陀如来のお慈悲に、報恩のこころから拝むことになるわけですが、実は大いなるお慈悲のはたらきは、この「私」が報恩感謝の心を抱く前から、拝む遥か前から、本願のおはたらきが届いていた、阿弥陀如来がみ手を差し伸べてくださっていた、と気付かされて、はっとさせられます。

(ボクにとって)
ボクにとって、南無阿弥陀仏と祖先を祭った仏壇に手を合わせ、月命日にはお寺さんに来ていただいて、ありがたいお経をあげていただきます。

浄土真宗西大谷派の檀家で、京都に在学中の16日は、東山の本山「お西さん」に参り、清水寺を参拝し、平安神宮まで足を伸ばしていました。

幼児の時馬車に敷かれ、大学在学中別府に帰省中スクーターで谷底に墜落し、銀行員時代は夜間駐車中のトラックに単車で激突しましたが、それぞれ一命を保つ事ができました。

この三回の大事故後に思った事は、神様か?仏様か?に救われたとはっきり自覚できていました。
母も祖母も神様仏様の信者で「いたらない孫、やんちゃな子のご加護」を祈ってくださているのは知っていました。

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