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都わすれの「「ベガルタ応援日記」

人生とは・・ 

2010年11月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


「筋書きのないドラマ」とか言われるが、他人から与えられるものじゃなく「自分で切り開くもの」だそうな・・・!


勿論私の人生はこの先「どのくらいなのか・?」は、神様しか分かりはしない。


昨日は食べ残した「枝豆」をそのままにして、大豆(青ばた豆)になったものをダンボールの中で叩いたが、約半分ほどは一つ一つ手でむくことに・・!


そんな中で色々な思いが頭の中を駆け巡り、「人生って・・?」何て考えていた。


良くても悪くても「自分の人生」である。


いつか嫁さんからのプレゼントで、あの「マツケンサンバ」を観に行ったことがあった。


きらびやかな衣装と最高の笑顔を、振りまくしたで色々苦悩もあったのか・・・!


今回は九州での長期公演中に、思いもかけなかっただろう奥さんの「衝撃的な死」があった。


思えば私にも幾度と無く「出来たら死んだ方が・・」と、思うほど多くの試練をかいくぐってここまで来た。


恥を忍んで生い立ちから書いてみようか・・・


ブログネタで「知床育ち」と書いたが、ここには到底書けない「忌まわしい」出来事もあった。


両親の故郷であり私も生まれた仙台に帰るきっかけになったのは、深夜の自宅の火災だったが「放火」と聞いた。


大人になって知床に行った時に、とても肯定など出来そうもないことも耳にしたが、勿論何も分かりはしない〜!


元々父親の姉が「開拓」で行ったが、夫を亡くし一番身軽だった父に「白羽の矢」だったようだけだけれど、両親亡き今は体験した事実しか分からない。(2歳の時に海を渡ったような・・)


仙台に戻ったものの「身一つ」の親子4人で、何ヶ月かは父親の実家で「居候生活」だった〜!


食べたいものさえ口に出来ない子らに、母は紙に包んで渡してくれた中には何のことはない「白砂糖」で、そんなものさえ自由に口に出来ぬ我が子が不憫だったのだろう。


引越しして来たのが1月中旬だったと思うが、暖かくなった頃か農家の納屋を借りて4人での生活が始まるが、先日一緒にドライブした恩師は「あの頃は・・」と言ったことがあった。


しかし父親はその農家での「手間取り」・・今は言葉さえ通じないかも・・?


ところが知床では見たことがなかった「欝」の状態が、中学を卒業し他の貸家に移る頃まで続き、たまたま母の叔母の家が「染物工場」だったことから母はそこで働き、その頃は「生活保護家庭」でもあった。


納屋で広さにして10畳位あっただろうか、勿論押入れもない一間で台所らしい場所も土間であった。


お風呂は大家さんの「もらい風呂」で、水道など無い時代でお風呂の水を交換する時など、遠くからバケツで何度運んだことか・・・!


家の中には仕事もしないで一日中布団に包まって寝ている父がいて(全ての日ではなかったが)、帰宅した母は逆鱗でとても目を向けられない光景でも、母が怖くて父を庇うことさえ出来なかった。


一時は就職をと思い2年生で英語選択を、職業選択にして3年生で進学を視野に英語に戻ったが、1年間のブランクは大きく今も「英語」って聞いただけで拒否反応である。


結局はまだ「集団就職列車」が走り、中卒が「金の卵」と言われた時代で私も、中卒で就職も月給が「5,000円」の時代である。


私が就職した頃に別の貸家に移り(大きくは無かったが)、父も体調の良い日は親戚の土建屋さんで働いたりしていた。


3歳違いの妹も中卒で就職夜間高校に通っていたが、その年に先の恩師のお見舞いに行き「通信教育」を勧められて、翌年入学し入学も一年遅れたから妹の翌年に4年で無事卒業。


卒業の前年に妹の結婚が決まっていて、「姉の方を先に」と言う母の言葉に「このままで上手くいくはずがない」と思いながらの結婚は、僅か1ヶ月一緒に暮らしただけで終わった。(おなじ月に私と妹の結婚式があった)


2に続く・・

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