メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

昭和2年生まれの航海日誌

気がめいる夕陽 

2015年02月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


 朝、姉からの電話、何時ものことかと受話器をとった。
 「活さんが」ときたので、あとは聞かずに分かった。 死んだ。
 すぐ電話をきった。
 体調は、教職定年後よくないとは聞いていた。

 すべての想い出が一瞬に浮かびあがってくる。

 9人兄弟で半数が80歳を超している中の4男坊である。
 戦時下、農村で大家族のなかで共に育ってきた。
 農作業にも不平たらたら働いた。

 体は小柄だが、祖父に似て色白で、恐ろしく腕力の強い奴
だった。しかし、性格は温厚だが、小学校に入学した当時
「おーやんは一番喧嘩が強い」と聞かされた。

 これは、嬉しかった。
 弱い弟を持つと、泣かされることが多く、そのたびに“仇打ち”を
しなければならないのが兄の使命であった。
 仇は弱い相手ばかりではなかった。相当の闘争力を要した。

 学業の方も先ず先ずで、体育面では、隣校選手に選ばれて、
徒歩競争にでていた。観ていると大股でゆっくり走るので、
ひやひやするのだが、それが速かった。


 国立大学を終え、兄弟では3人目の学士となった。

 アルバイトで大阪のパン屋も一緒に行った。
 競輪で俺が8000円台の大穴をとったとき、喜んで、
「帰ろう、背広を買え」とすすめてくれた。

 昭和25年の就職が決まった頃で、
 二人とも若かった20歳の前後であった。

 私が、寮生活、公務員の転勤等で生家で一緒に暮らすことは
すくなくなってしまった。

 十年前、義兄の葬儀に参列したとき、姿をみたが、喪主の代役を
していたので、話ををする余裕がなかった。あれが見納めとなった。

 夕陽がだんだん淡路島の北に沈むのを楽しんでみて居た毎日
だったが、今日は淋しく映るだけ。
 あいつは、遠い北へ沈み込んで、もう昇ってこないんだもの。
 夕陽をみて想い出す日が続くことだろう。冥福。
 

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ