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日々徘徊〜♪

日系ブラジル人 

2015年06月12日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

祖父母の国は色あせて・・・

 赤い鳥居に日本庭園、ちょうちん風の街灯が連なるブラジル・サンパウロのリベルダージ地区。移住した日本人らが商売を繁盛させてきた街は、どこか「昭和」で時間がとまった風情だ。近年は中国や韓国からの移民が増え、「東洋人街」と呼ばれる。
 中心部のビルにある日系の人材派遣業者には去年後半以降、製造業を中心に100人単位の募集が日本から舞い込む。ここ数年なかった数だ。今年は去年の倍の月30人ほどを送り出す。それでも200人以上足りない。別の会社社長は「これまでは日本語が出来て入れ墨のないことが条件だったが、最近は日本語はいらない、入れ墨は見えなければいいに変わってきた」と話す。……

ハワイもしかり

 多分今の日本の商店街駅前で在りましても
シャッター通り、ブラジルの日系社会も色あせてきているのかもしれませんね。

時代の波そして 
あまりに世界中が変わりました。
明治大正時代に この国に移民で渡り
苦労しながら生き延びて
その日本人の分身が 仕事を探しに


 そこでまたリーマンショック
また日本に帰られているんですね。
本当に翻弄されながらも また 
日本は求人広告を出しているのですね。
貧しさゆえに 移民で渡り
代々この日本で・・・行ったり来たり・・。

下記当時のブラジルは黒人奴隷を
使っていた。

日本人は良く我慢をしたと思いますよ。

ブラジルはアフリカ大陸から送りこまれた奴隷を農業労働者として重用していたが1888年に奴隷制度廃止を行い、その後農業労働者不足となりヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ始めた。
しかしイタリア人移民が奴隷のような待遇の悪さに反乱をおこし移民を中止したために再び農業労働者が不足となった。これを受けてブラジル政府は1892年に日本人移民の受入れを表明した。
しかし日本政府はイタリア人移民の事案を根拠にブラジルへの移民を躊躇した。

明治時代多くの日本人移民を受入れていた米国で、人種差別を基にした日本人排斥連盟の活動が激化した、その会員は400万人を超え、1900年(明治33年)に日本政府は米国への移民を制限した。
1904年(明治37年)に起きた日露戦争で日本は勝利をおさめたが賠償金を得られず経済は困窮し農村の貧しさが深刻になっていたが、アメリカ政府は日本人移民受入れ数の制限を強化し、移民受入れ先として有望視されていたオーストラリアやカナダも日本人移民を制限したことから、日本政府は新たに移民の受入れ先を模索することとなった。

そこでブラジルが浮かび上がったのでしょう。
そんなに貧しかった日本・・・
今は考えられませんね。
豊かになったものです。
この豊かさと平和は維持したいものです。
http://www.gialinks.jp/nanbei.html



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