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尺八と横笛吹きの独り言
「忠義桜」 岡山県民謡
2015年12月15日
テーマ:テーマ無し
●「忠義桜」 岡山県民謡
写真はこの唄の舞台となった作楽(サクラ)神社
この唄の歌詞にある桜の舞台となった桜の木を「忠義桜」といい、岡山県津山市院庄の作楽(サクラ)神社にあると言われている。主人公、児島高徳(こじまたかのり)が桜の木の幹を刀で削り,十文字の漢詩を掘り,囚(とら)われの身の後醍醐天皇を慰めた桜。
とらわれた後醍醐天皇に、児島高徳は中国の故事にある「越王を助けた范蠡(はんれい)」の話を漢詩にして桜の木に彫った。そして范蠡(はんれい)」のような忠臣がここにもいます……と天皇を慰めた。この桜を「忠義桜」といい、唄になった。
戦時中に,学校の児童に皇国史観を教える手段にも,この物語が使われたと聞く。
この作楽(さくら)神社は岡山県津山市神戸433にあり、中国自動車道「院庄IC」(いんのしょうインターチェンジ)から3分ほどの所に『作楽神社 』 (さくらじんじゃ)がある。この神社は鎌倉時代から室町時代にかけて院庄館(美作国守護の館)があった所に、明治2年に津山藩主松平慶倫により創建されたものです。御祭神は「後醍醐天皇」と「児島高徳(こじまたかのり)」となっています。
写真 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
●「忠義桜」 歌詞
酒を飲んだ席でよく<忠義桜>という民謡を歌っていた。蓄音器で練習していた人もいたので,子供もこの民謡を知っている人は少なからずいた。
1 桜ほろ散る院の庄
遠き昔を偲ぶれば
幹を削りて高徳が
書いた至誠の詩(うた)がたみ
2 君のみ心安らかれと
闇にまぎれてただ一人
刻む忠節筆の跡
めぐる懐古に涙湧く
「詩吟」
「天光勾践を空しうするなかれ
時に范蠡なきにしも非ず。」
<てんこうせんをむなしうするなかれ
ときにはんれいなきにしもあらず>
3 風にさらされ雨に濡れ
文字はいつしか消えたけど
つきぬほまれの物語
永久(とわ)に輝く花のかげ
●漢詩(詩吟)の意味
「天 光勾践(てん こうせん)を空(むな)しうするなかれ 時に范蠡(はんれい)なきにしも非ず。」
「天は,捕縛された身の越王<勾踐>を,空しく殺めてしまうことがある筈はない.時に越王を助けて,再び越の國威を輝やかした忠臣范蠡の様な者がいますよ」という意味。
右の写真はこの桜の木に漢詩を書く児島高徳。
●唄の主人公 児島高徳(こじまたかのり)のお話
彼が生きた時代は鎌倉時代末期。朝廷では持明院党と大覚寺党が交互に天皇になっていた.1318年大覚寺党の後醍醐天皇が即位した時幕府打倒を計画したが,幕府に察知され,一度は許されたものの,再び統幕を計画したがこれも露見した。
その結果,後醍醐天皇は隠岐の島に流されることになる。
後醍醐天皇に忠勤を励む児島高徳は天皇誤送団(約500騎)を襲って天皇奪還を測るが,誤送ルートを見誤り奪還を断念した。
しかし,高徳一人は奪還を諦めず,夜になって天皇御在所に侵入したが,厳重な警備の前に何もできなかった。
そこで,傍らにあった桜の木の幹を刀で削り,十文字の漢詩を掘り,囚われの身の天皇を慰めた.中国の古典に詳しかった後醍醐天皇は、これを見て微笑まれたという。
http://blogs.yahoo.co.jp/kurashiki_prince/22331240.htmlより抜粋。
●児島高徳が桜に書いた十の文字の漢詩
「天莫空勾践 時非無范蠡」
この漢詩は,古代中国の故事を例にとり,此処にも貴方を御救いする忠臣がいますよと,隠岐の島に流される後醍醐天皇を慰めたものである。
●児島 高徳(こじま たかのり)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる、備前国児島郡林村出身[2]の武将。元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。
江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった
後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動ルート誤判によって失敗に終わる。完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまった時、高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
1331年(元弘元年)に鎌倉幕府の打倒に失敗し囚われの身となった後醍醐天皇は光厳天皇への譲位を強制された後、翌年3月になって京から隠岐へ配流されたが(元弘の乱)、その途上、美作国院庄の守護館に宿泊した。一方、備前国の土豪児島高徳は手勢を率いて、護送の途中で先帝(後醍醐天皇)を解放しようと企てたが、好機を見いだせないまま院庄まで追跡してきていた。厳重な警護をかいくぐり守護館の庭に単身潜入した児島高徳は、桜の木の幹を削って白くなった所に、十字詩を刻んだ(「白桜十字詩」と呼ばれる)。
●呉越(ごえつ)の戦い
紀元前5世紀(中国の春秋時代)に,揚子江の南に二大強国<呉>と<越>が対峙していた。
呉の王<夫差:ふさ>は戦いで父を失うが,その痛みを忘れない様に薪の上で寝るなど苦心し,3年後に<越>を破り,その王<勾踐:こうせん>を<会稽山>に追い詰め,遂に捕虜にした。
しかし,呉の王(勾踐)の忠臣である<范蠡>は,巧みに賄賂を用いて捕縛されていた勾踐を救出した. 勾踐は捕虜の身の苦しさを忘れない為に,苦い肝を毎日舐めて復讐を誓い,紀元前473年に呉を滅ぼした。
こうした話から,<呉越同舟>とか,<臥薪嘗胆>とか,<会稽の恥をそそぐ>という言葉が生まれたという。
写真http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point28.htmlより転載
●呉越同舟(ごえつどうしゅう)
仲の悪い者同士や敵味方が、同じ場所や境遇にいること。また、反目しながらも共通の困難や利害のために協力すること。
「呉」、「越」はともに中国春秋時代の国名。父祖以来の因縁の宿敵同士で、その攻防戦は38年に及んだとされる。
「呉越同舟」の出典は『孫子(そんし)』で、「呉と越は宿敵同士でしばしば戦いを繰り広げたが、その憎しみ合っている両国の人が、同じ舟に乗りあわせていたときに暴風に襲われたならば、普段の恨みも忘れて互いに助けあうだろう」という故事にちなむ。
●臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出すことを臥薪。苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにしたことを嘗胆。
●後醍醐天皇 (ごだいごてんのう)
1318年に即位した天皇で、鎌倉幕府を倒そうと2度計画をたてますが、失敗し、隠岐[おき]に流されます。後に鎌倉幕府がほろびると建武の新政[けんむのしんせい]をはじめますが、足利尊氏[あしかがたかうじ]が背き、吉野[よしの]に逃れて、南朝[なんちょう]をつくりました。
写真http://gensun.org/aid/11514より転載
●范蠡(はん れい 生没年不詳)は越の国王である勾践の部下だ。
中国春秋時代の越の政治家、軍人である。氏は范、諱 は蠡、字は少伯。越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大 の立役者とされている。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
写真http://mingren.maigoo.com/1166.htmlより転載
●勾践(こうせん、? - 紀元前465年)
中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。
春秋五覇の一人に数えられることもある。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
写真http://yxs.qq.com/card/generals/hero_gouj.shtmlより転載
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