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山中幸盛(鹿之助)の首塚? 広島市草津 海蔵寺 

2011年02月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

広島市の西に位置する草津です

大変長い歴史を持つところで神武天皇の時代に草津の港は軍津(いくさつ)と呼ばれ
古代から水軍、水運などの重要拠点でした。

山陽道の広島と廿日市宿の間宿としても賑わいました。


海蔵寺参道。
山陽本線が横切っています。


山中鹿介の娘、盛江の墓があると記されていますが、

盛江は児玉周防守(草津城主、毛利氏の配下)によって庇護され草津に連れられ、
出入りしていた商人の吉和屋孫左衛門義兼に縁付きました。

盛江の願いで児玉周防守は鹿之助の首を鞆の浦から草津の浄教寺境内墓地に改葬したいう話があります。

その後昭和12年に草津海蔵寺の境内墓地へ山中家(吉和屋)先祖代々の墓を改葬の際、
盛江の五輪塔の斜め後の松の大木の根元に埋葬し山中鹿介の首塚としたそうです。

また尼子の残党が鞆の浦から掘り出し広島県東城町の 徳雲寺に埋葬したとの話もあります。



本堂


東城浅野家の菩提寺なので立派は墓が立ち並んでいます。


北条氏直の墓まであります。
(北条氏の第五代目当主、小田原城主)


山中盛江の墓
松の大木は枯れていました。


月山富田城の山中鹿介像


石組庭園


境内から海方向を望む。
埋め立て地が広がり海は見えません。
元はすぐ下まで海でした。


西方の草津城跡。
草津城(くさつじょう)は広島市草津地区にあった山城で創建時ははっきりませんが、
戦国時代に安芸武田氏、大内氏、厳島神社神主家(佐伯氏→藤原氏)、陶氏、毛利氏などが
奪い合った城です
関ヶ原の戦の後、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり
広島の西の関所とし草津城をこわしたといわれています。


元は海に面した一つの山ででした。
黄砂のせいか画像がぼけています。




海蔵寺の下の鷺森神社(さぎもり)
天徳4年(西暦960年)に勧請されたと伝えられており、広島市の中でも古い神社です。


御由緒

拝殿


蟇股
鷺森(さぎもり)神社なのでサギでしょう。


木鼻
龍のようですが蹄があるので麒麟(きりん)でしょうか
はじめて見ました。



狛犬



浄教寺

案内板
草津地区は『歴史のさんぽ道』と題しの歴史的建造物に
この綺麗な案内板が掲げてあります。

境内


臥龍(がりゅう)松




山中鹿介400年供養等と
本墓は海蔵寺に移す。昭和12年



山中家の末裔には大坂の両替商・鴻池家(後の鴻池財閥)や

日本の美容師の草分けの山中豊子氏が盛江の直系子孫で、草津で生まれています。

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