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未来へ繋ぐ根源的な文学表現 

2016年10月28日 外部ブログ記事
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今年のノーベル文学賞は、ボブ・ディランに与えられるという発表があって、私も驚いたが、ボブ・ディランの歌詞を日本語に訳す仕事をし、「ボブ・ディラン全詩集」という本を出している中川五郎氏の新聞への寄稿文を興味を持って読んだ。
 
この5年ほど、毎年ノーベル賞の季節になると、文学賞の候補の一人としてディランの名前が挙がっているので、受賞した時はコメントをほしいという連絡が新聞社や通信社から入っていたと、中川氏は言う。そしていつもは「だめでした」という連絡が来ていたのだが、今年は驚いたことについに受賞が決まり、あちこちからコメントを求められることになったという。
 
そして、中川五郎氏は次のように語っている。
ボブ・ディランにノーベル文学賞が与えられることはないだろうとぼくは思っていた。それは彼の歌が狭義の「文学」という枠の中に捉えられるような小さなものではなく、それをしなやかに乗り越え、大胆に逸脱し、もし「文学」の枠というようなものがあれば、それを大きく広げるどころか破壊してしまうような過激で斬新なものだからだ。言葉だけではなくそれに曲をつけ、人前に立って、楽器を弾きながら、声に出して歌う、そんなディランの新しい総合表現を文学と見なすほどノーベル文学賞は頭が柔らかくないだろうとぼくは考えていたのだ。ところがノーベル文学賞は「偉大なアメリカの歌の伝統の上に新たな詩的表現を作り出した」と今年の受賞者にディランを選び、「ディランの詩は目で楽しむもの、ホメーロスやサッフォーの時代から詩はもともと楽器と共に聞かれるものだった」と、スウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務局長は語っている。何という正しい認識。後の時代に形作られた「文学」の小さな枠にとらわれることなく、最も根源的なかたちでの文学表現を、ディランは今の時代の中で未来に向かってやり続けているということを、ノーベル文学賞はちゃんと理解しているのだ。
受賞から数日が過ぎてもディラン本人からは何のコメントもなく、もしかして受賞を拒否するのではないかと噂する人たちも出てきている。ディラン自身はノーベル文学賞によって自分の音楽が認められたとか、栄誉が与えられたとか、それによって何かが変わるとはきっと考えていないだろう。今回褒められるべき者がいるのだとしたら、それは柔軟で正しい判断を下したノーベル文学賞だとぼくは思う。
 
Bob Dylan
1941年、米中西部ミネソタ州ダルース生まれ。
ミネソタ大を中退後、ニューヨークに移り、62年にデビュー。
2001年に「シングス・ハヴ・チェンジド」で米アカデミー賞を受賞。
08年にピュリツァー賞で特別表彰。
12年には米文民最高位の勲章「大統領自由勲章」を受けた。
 
ノーベル文学賞受賞が発表されて以降、ディラン氏は米西部ネバダ州やカリフォルニア州などでのコンサートを重ねているが、これまで受賞に関するコメントは一切発しておらず、全く賞を気にかけていない様子さえうかがえる。
ボブ・ディランの沈黙は多くの憶測を呼んでいるが、その結末には興味が湧く。
 
 
 

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