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父−4 

2011年03月12日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 

 

 

 
遠い昔のことで記憶も定かではないが、母とリヤカーを引いて青崎というところまでカーバイトを取りに行っていたことがある。どれくらいの時間がかかったか、はっきりとは覚えていないが、子供だから背が低いのでリヤカーの後ろを押す作業も、ちょうどほどよい高さだったと記憶している。しかし暑い炎天下の時は決して楽ではなかったに違いない。
カーバイトは炭化カルシュームの塊で、水をかけると化学反応が起こりアセチレンガスと水酸化カルシュームの灰が残る。昔は、屋台の照明などに利用されていたが、現在でもまだカーバイトランプが使用されているらしい。アセチレン自体は、今でも酸素・アセチレン切断機などで鉄板などの切断に利用されている。その際、アセチレンはガスボンベに入っているのを利用しているが、カーバイトを使ってアセチレンを作り出し利用していた昔は、まだアセチレンボンベが普及していなかったのか、そのへんの事は良く分からない。父は、溶接棒という長さ1m弱、直径2〜3ミリの鉄の棒をアセチレンガスと酸素で出来た炎を利用した溶接機で巧に溶かしながら、鉄と鉄とを接続するガス溶接が得意だった。その溶接された部分の均一に波を打ったような形状は、今思うと砂漠の上にできた砂模様に似て芸術品のようだった。
 
その時代は、まだまだノンビリした時代で、父は仕事であまった鉄板などの材料を利用して、その巧みな技でいろいろなものを作って私たち兄弟を喜ばせていた。例えば、左右が長細いタンクのようになっていて中央に座席があり自転車のペダルのように足で踏んで漕ぐようになった水上自転車というか、一人乗りの水上ボートのようなものを作って海水浴で遊んだ記憶がある。
その難点は、何といっても鉄製であるため重量が重く、持ち運びが大変だったが、タイヤのチューブの浮き輪で遊ぶ子どもたちを尻目に得意になっていたものだ。
 
鍛冶屋の技術を生かし若い父が新しい事業を興したばかりと言うこともあるのか、この時代の想い出は多い。そのころ三輪トラックが発売されたが、まだ丸ハンドルではなく、オートバイのように運転席でまたがりタイヤと直結した角形(つのがた)ハンドルを操って走行するものだった。道路も現在のように舗装されたところは少なく、ほとんどが凸凹の状態で雨が降るとそこいら中水溜まりが出来ていた。その三輪トラックの助手席は、ちょこんと腰掛ける程度の小さなもので、サイドの扉もないので、ある時、悪路で振り落とされた事がある。スピードも出ていなかったことと、道路脇の深い草むらだったこともあって怪我はしなかったが、運転に夢中な父は私が車から姿を消したことをしばらく気がつかなかったようだ。助手席に私の姿がないことが分かったときの父の慌てようが思い出される。
 
その後、地元のマツダが丸ハンドルの三輪トラックを発売したが、両サイドにはちゃんと扉が着いたものだ。しかし、最初の頃のトラックは荷台が小さく、特に長さが短くて長いものが載せられない事に不満を持っていた父は、なんと鉄板を溶接して長い荷台に改造してしまった。
それが法律に適合したものかどうかは定かではないが、後にロングボディのトラックが発売されたとき、「メーカーがワシの真似をした、けしからん!」と本気で怒っていた父を思い出すと同時に、三輪トラックのメーカーには、現在も残っているダイハツの他に、オリエントとかクロガネといった名前も忘れていない。そういえばもう一つ大事なことを書き忘れるところだった。
角形ハンドルの三輪トラックは、その時代のオートバイと同じようにセルモーターがなく、ペダルを足でキックしてエンジンをかけていた。そのペダルを踏み込んだとき、逆に跳ね上がり足を負傷する人もいた。なぜか知らないが、その現象を「ケッチン」と呼んでいた。「ケッチンに気をつけろ!」と父がさかんに言っていたのでよく覚えているが、そのころの私の体重と力ではそのペダルは動くこともなかった。
 
その後、父は三輪トラックの荷台にクレーンを取り付けた今で言うクレーン車を自作で作ってしまうのだが、これは死ぬまで自慢話の種になっていた。アングル材で出来たブームはちゃんと伸縮し、ものを吊る傾斜も調整できクレーン自体も旋回するという、機能的には現在のクレーン車と遜色ないものであった。それは、その後の事業で大いに活躍したことは言うまでもない。
 
ここまで、思い出される事を思いのままに書き綴ってきたが、カーバイトのあの臭い嫌な匂いが思い出され、記憶も少し悪い方へと進み始める。
 
そのころの父はとても優しい人であったが、かんしゃく持ちで、気に入らないことがあると、ヴァイオリンをたたき壊したり、お膳をひっくり返したりしていた。まさにあの巨人の星・星飛雄馬の父、一徹である。こうなったときには、もう手のつけられない状態で、家族は静かにしている他はなかった。自分の言い分が通らないと、仕事でもすぐに喧嘩をするという短気だった父を見て育った私は、父のそういった面だけは見習うまいと何時も考えていたが、悲しいかな同じDNAを持つ自分をよく知っている。しかし、父はあっという間に機嫌が治るという特徴も持っていて、翌日には、そんなことはいっさい知らないと言った風でにこやかな笑顔は戻るのであった。
 
私の乗った新幹線は、いつの間にか東京駅に近づいている。
 
父との想い出は、子供時代のものが一番だと思っている。父は、81才でこの世を去ったが、4人の男の子に私立大学を卒業させ、一人前に育て上げた功績は大きい。晩年には、11人の孫を持ち、子煩悩振りを発揮していた。
高校へ通う私に、学校を休んでも自動車の運転免許を取得せよ、と言ったり、これからはゴルフが出来ないと駄目だからと、社会に出たばかりの私にゴルフを教えてくれた。父という教師の下に習ったゴルフは、おかげで何十年と経験したにもかかわらず上達しなかったが、それを父のせいにしながら酒の肴にしても、笑い飛ばして、早く俺よりも上手くなれと言ったものだった。
そして私は今、一人の父として、息子の大学入学式に立ち会おうとしている。
 
つづく
 

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