人間観察そして恋そして小説も

管理社会の到来は意外と早いのかもしれない 

2017年08月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

フェイスブックをしかたなく始めた本来はしないつもりだったが、連絡がフェイスブックでしかできないところもあり、しかたなく。フェイスブックのコンセプト、わからないではないが私にはどうも馴染めない。友達の友達は皆友達そりゃそうだが、具合の悪いことも多々ある。あの友達にはこれを話していいが、あの友達には秘密にしておきたい。勿論設定でどうにかなるどうにかできるが、設定次第では、知ってほしくない情報も漏れ伝わる事がままある。本人は知られたくない設定をしたのだが、勘違いで漏れ出す事は多々ある。昔それで嫁と揉めたことがある。だからやめていたのだが、必要にせままれて、開始したのだが・・・一番いやなのが、原則本名。これがねえ・・・・しかし慣れとは恐ろしいものだ。あれだけ友達について吟味していたのが、最近ではさほど神経質に考えない。まあ、いいか、別に悪いことをしているわけじゃないし・・と。この油断がいずれ揉め事につながるのでは・・と懸念もするが、そんな事考えていたらフェイスブックは使えない。ただ、このデーター、集積され個人情報として蓄積されていることを覚悟する必要がある。情報は友達間だけの情報ではありえないのだ。フェイスブックで蓄積されデータは、「クリック」「つながり」「コンテクスト(背景)」の三種類に大別され、それぞれが個人の人格を容易に分析できてしまう。たとえばフェイスブックは、カップルが交際中であることを公表する100日前から、二人のネット上のやりとりは着実に増加すること、そしてステータスを「交際中」に変更したとたんにフェイスブック上のやりとりは一気に減少することを把握している。当事者が「交際中」であると認めていなくても、フェイスブックにはわかっている。データーだけで推察され、それは殆ど事実と変わらない。ソーシャルデータは個人が自覚していない本音まで明らかにしてしまう。個人情報は、個人の性格を色濃く反映し、その人の性格、今後の行動まで予測しようとすれば出来てしまうのだ。フェイスブックに限らず情報はあちこちで蓄積されている。そしてこのデーターを集積する権限さえあれば、たちどころにこの情報は分析され、個人の性格を、本人以上に把握してしまうことになる。これを止めるすべはない。何故なら、個人情報とは行動履歴であるから、社会生活にはめ込まれた人間は、いやおうなしに個人情報を与えるしか、術がないからだ。もう開き直るしかない。管理する政府を信じ、その活用を誤った方向に使わないか、漠然と判断するしか、個人でなし得る対策は無い。だから、私も開き直ってフェイスブックを利用しているのだが、いまだに微かな恐怖心を覚える。自分のこのデーターが、未来の個人に影響する原因になりやしないかと。管理社会の到来は、案外近いのかもしれない   にほんブログ村

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