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10年前に管理人が寄稿した論考「生の靖国問題」 

2017年08月19日 外部ブログ記事
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管理人は、全国老人福祉問題研究会の機関誌「ゆたかなくらし」2007年8月1日第305号に「生の靖国問題」を寄稿しました。
いま読み返しても靖国問題の本質と根幹は変わらないと考えています。

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 生の靖国問題

東京の戦争遺跡を歩く会 長谷川順一


天皇に袖にされた靖国

 昨年7月20日に日経新聞がスクープした富田朝彦宮内庁長官のメモ(昭和天皇の発言メモ)で明るみに出ました。昭和天皇がある時期から靖国神社の参拝を取りやめたのは、A級戦犯合祀に対して『私は或る時に、A扱が合祀されその上 松岡、白取までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考えがあつたのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ』と「御意に召さず」という不快感を持ったからだというものでしたが、卜部亮吾侍従が記した「卜部侍従日記」が5月に朝日新聞から出版され富田メモを裏付ける証言となりました。あの富田メモが出てから、靖国参拝推進派の人々は、A級戦犯合祀に賛成できないから参拝をやめたわけではない。あのメモはちがう趣旨の発言内容がまぎれこんだ、などさまざまな詭弁を弄して、あのメモにあらわれた天皇の真意はそういうところにあるのではないといいたてましたが、今度はどんな詭弁を用いてもいい逃れできないほどに問題点は明らかになつています。
 靖国神社は何故、昭和天皇に袖にされたのか考えてみたいと思います。
 評論家の半藤一利さんは、昭和天皇が記者会見の席では戦争責任の所在について、「個人の批判が加わる」と明言を避けていたことに触れ、「公式の席で言えなかったことも富田氏に話していたのだろう」(メモの中の発音は)突然出たものではなく、ずっと天皇の中にあつた思い」と指摘しました。また、「メモは天皇の怒りの表れとみる報道が多いが、靖国が政治的な思惑が絡んだ施設になっていくことへの悲しみの表れだと思う」と語つています。【毎日新聞06年8月3日東京新聞夕刊】
【注】「松岡」は日・独・伊・三国同盟締結時の松岡洋右外務大臣を指す。「白取」は「白鳥敏夫」のことで当時の在イタリア大使を指す。

九段の母

 普段の靖国神社は「カトリック系のお嬢様学校」といわれている白百合学園の小学生が通学のために参道を行き交い、まるで境内一面に黄色い花が咲いたように黄色いランドセルと大村益次郎の銅像、そして大鳥居がミスマッチをしている静かな境内の貯まいです。 ところが春秋の例大祭や建国記念の日などには駐車場に入れきれない真っ黒な右翼政治団体の街宣車が参道一杯に駐車し、小銃を捧げた軍服姿の男たちが軍旗、海軍旗を先頭に軍隊ラッパを吹き鳴らす行進姿は一挙に62年前に戻ったような異常空間となるのです。 昨年の8月15日午前7時41分、空には取材のヘリコプターが飛び交い騒然とした中を小泉首相は5回目の参拝をしました。リベラルな人達が忌み嫌う場所として立ち寄らないのは当然であり、私もその一人でした。靖国神社のオフィシャルガイドブックに「歌い継がれる靖国神社」があり、そこに「九段の母」の歌詞が載っています。「世は歌に連れ」と言われますがこの歌謡曲はテイチクレコードから発売され昭和14年に大ヒットしたと言われています。
1 上野駅から 九段まで
  かつてしらない じれったさ
  杖をたよりに 一日がかり
  せがれきたぞや 会いにきた
2 空をつくよな大鳥居
  こんな立派なお社に
  神とまつられ もったいなさよ
  母は泣けます うれしさに
3・4 (略)
 東北地方から列車で上野駅に着いた母親が九段坂を登り、英霊と祀られている息子に会いに来た情景です。2番の歌詞には見事に靖国神社の歴史と役割が述べられています。
 『空をつくよな大鳥居』。創建50周年記念に建立された高さ21?、当時は鉄板を丸め円筒にする技術が無かつたために青銅板を丸くして鋲で鉄骨に留めて建設した日本一の大鳥居です。1943(昭和18)年に老朽化のため解体され仮の鳥居となり、現在の大鳥居は戦後再建された高さ25?となつた三代目です。
 『こんな立派なお社に』。1869(明治2)年、時の軍務官判事大村益次郎が明治政府の命により東京招魂社の敷地として選定した約2万8千坪(94.738?)東京ドーム二倍のひろーい、ひろーい、見渡す限りの広さがある境内です。
 『神とまつられ もつたいなさよ』。天皇の赤子として差し上げた息子の命であるのに英霊として祀られ畏れ多いことでご座いまするとひれ伏すのです。
 『母は泣けます うれしさに』。本来、愛する息子の戦死は母親にとつては深い悲しみであるのに光栄なこと、郷里の誇りとして半ば強制的に喜びに変換させられる情念の歌詞です。夫が戦死をした妻も同じように「帝国軍人の妻」として悲しむことを国家は許さなかったのです。私が生まれ、父が中国上海戦線に出征した年、1937(昭和12)年に、古賀政男が作曲、美ち奴が唄った歌謡曲「軍国の母」もご紹介しましょう。
1 こころ置きなく 祖国のため                         
  名誉の戦死 頼むぞと
  泪も見せず 励まして
  我が子を送る 朝の駅
2 (略)
3 生きて還ると 思うなよ
  白木の枢が 届いたら
  出かした我が子 あつぱれと
  お前を母は 褒めてやる
一方、軍隊生活に耐えられずに自殺した兵士の遺骨は、荒縄でくくられた白木の柩で遺族に渡され、又、脱走した兵士の家族は国賊、非国民として「村八分」にされ、「不忠ノ子ヲ育テマシタ罪一家一族ノ死ヲ以ッテ天皇陛下ニオ詫ビ申シ上ゲマス」と遺書を残し一家心中に追い込まれた家族もあつたと言われています。

別格官幣靖国神社

 広大な敷地と大鳥居。そして東京三大銅像の一つ、大村益次郎の銅像が靖国神社の舞台装置、大道具なのであります。
 この大道具と舞台を使って行われるのが、「招魂式」であり、「招魂祭」なのです。戊辰戦争に参戦した各藩から戦没者名簿を提出させ、初めて合祀した招魂式は江戸城内西の丸で執行され、1869(明治2)年、東京招魂杜が創建されて以降はその社殿で行われました。以後、「名簿」こそが祭祀の根本となるのです。
 1879(明治12)年、東京招魂社から天皇が主宰する別格官幣靖国神社となり、国家の宗旨となつたのです。遊就館と並ぶ靖国会館の奥に招魂齋庭があります。当初、社務所奥にあつた招魂齋庭は戦没者が増えたために1938(昭和13)年、現在地に移ったと説明されています。招魂齋庭の仮殿に安置され、戦没者の名前が書かれた「戦没者名簿」は「御羽車」(神官が担ぐ神輿)に載せられ、境内をしずしずと進み、本殿の扉が開かれ、神器に「霊魂」が乗り移り「英霊」となります。「戦没者名簿」は「霊爾簿」となり本殿の後にある霊爾簿奉安殿に安置されます。
 戦前の合祀の手続きについては、戦没者が生じた時点において、陸(海)軍省大臣官房内に審査委員会が設置され、高級副官を委員長とし、各部将校を委員に任命、出先部隊長または連隊区司令官からの上申に基づき、個別審査の上、陸海軍大臣(他省関係大臣合議の場合もある)から上奏、天皇の裁可を経て、合祀が決定され、官報で発表後、「招魂式」並びに、「招魂祭」が執行されました。
 大日本帝国が敗戦した年、1945(昭和20)年11月19日午後6時から、「満州事変以後の未合祀者で、将来靖国神社に合祀されるべき英霊」を一度に招魂する臨時大招魂式が営まれました。祭典委員長は、ミズリー号で降伏文書に署名した最後の参謀総長・梅津美治郎大将が任命され、宮司は鈴木孝雄陸軍大将でした。
 翌日午前9時からの臨時大招魂祭には、昭和天皇、幣原首相と各閣僚、在京陸海軍部隊代表、GHQ民間情報教育部長ダイク准将などのほか、遺族約千人が参列しました。
 多くの軍関係の書類は空襲で焼失したり、機密文書として敗戦直後に焼却処分をしました。また外地での戦死、戦病死などの状況は全く把握できていませんでした。「戦没者名簿を作成するということは、靖国神社の祭祀の根本をなすこと」となつてはいても合祀名簿は作成できず、さらにはGHQの意向では靖国神社の存続そのものが危ぶまれていました。そこで政府と靖国神社は「氏名不詳」のままですが「将来靖国神社に祀らるペき満州事変以降大東亜戦争に至る陸海軍軍人軍属等」の「英霊」を合祀したのです。
 陸軍省、海軍省の廃止後、第一、第二復員省の資料及び厚生省を経由し各道府県に照会して得た資料(祭神名票)に基づき、旧陸海軍の取扱った前例を踏襲して、合祀の取扱いを決定しました。しかし、第一、第二復員省の所在地は大本営陸軍部や参謀本部などが置かれた市ヶ谷台の同じ敷地内だったことからみても高級将校の美山要蔵や服部卓四郎などが「旧陸海軍の前例」を踏襲して「戦没者名簿」を作成してきたことが歴史的事実としてハッキリと見えてきます。
 合祀対象も軍人軍属だけではなく、満蒙開拓団員、満蒙開拓青少年義勇軍隊員、ソ連、樺太、満州、中国に抑留中死亡した者、女子挺身隊員、日赤救護看護婦、沖縄県一般邦人、沖縄の疎開学童死没者(対馬丸遭難)などとされました。
合祀柱数2,466,565柱(2005年10月17日現在、台湾、韓国・朝鮮出身者約5万柱を含む) 1946(昭和21)年に宗教法人靖国神社設立の登記を東京都に申請し、1957(昭和27)年に法人が認められました。

A級戦犯14人の合祀名簿

 「A級戦犯」の祭神名票は1966(昭和41)年に送付されましたが神社側が合祀をしたのは1978(昭和53)年であり、新聞報道で国民が知るのは翌年のことであります。なぜ12年間の空白があつたのでしょうか。
 靖国神社は『そこまで遅れたのは、昭和30年代から51年9月にまでわたつて長引いていた、靖国神社国家護持法案の国会審義(法案は49年に廃案)などとの絡みで、全く国内的な政治情勢で戦犯呼ばわりされている故にためらつたというわけではないのです。何しろ国会決議に支えられての合祀可能という認定だつたのですから。』と言い訳をしています。(「正論」臨時増刊号「靖国と日本人の心」)
 ところが1978(昭和53)年3月神社宮司筑波藤磨氏が急逝し、7月に新に就任した第5代松平永芳氏は文芸春秋社発行『諸君』(1992年12月号)『「靖国」奉仕十四年の無念』に驚くべき真相を述べていました。
 『いわゆるA級戦犯合祀のことですが、私は就任前から、「すべて日本が悪い」という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々書類や総代会議事録を調べますと、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預りとなつていたんですね。私の就任したのは五三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、「まだ間にあうか」と係に問いたところ、大丈夫だと、いう。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、十四柱をお入れしたわけです。合祀祭の翌日秋季例大祭の当日祭と、その次の日においでになつたご遺族さん方に報告したわけです。「昨晩、新しい御霊を千七百六十六柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に」――ここを、前の晩、ずいぶん考えたんです。「東条英機命以下…」というと刺激が強すぎる。戦犯遺族で結成している「白菊会」という集りがありますので「祀るべくして今日まで合祀申し上げなかつた、白菊会に関係おありになる十四柱の御霊もその中に含まれております」』  戦前の合祀手続きは陸海軍大臣から上奏「裁可」を経ていました。終戦後は旧陸海軍の取扱った前例を踏襲して、合祀の取扱いを決定したとなつているとしか神社から公表されていなつかたのですが、同氏の文章から戦後も天皇に上奏簿が提出され、事実上の「裁可」が継続していたことが歴史上明らかになつたのです。

パール判事

 元宮司松平氏は「東京裁判史観を否定しない限り」と述べていますが靖国神社は「A級戦犯」合祀を正当化する理由として極東国際軍事裁判で、連合国側の判事でありながら、ただひとり、被告全員の無罪を唱えたインド代表判事パールにその根拠を求め始めました。京都霊山護国神社は1997年にインド独立50周年を記念し、パール判事の顕彰碑を建立していました。遊就館は展示「終戦」の部分にパール判事の写真と講演記録文を既に掲載していましたが、一昨年の6月25日、遊就館前の広場に顕彰碑を建立し、ますます「東京裁判全面否定史観」にはまり込んでいるのす。
顕彰文の一部を引用しておきましょう。
 『ラダ・ピノード・パール博士は、この通称「東京裁判」が、勝利に倣る連合国の、今や無力となつた敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的板拠が全く欠けている事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公けにされたのであります。私共は玄に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本国民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に伝えんとするものであります。靖国神社宮司南部利昭』
【注】本文の旧漢字は当用漢字に直しました。
 東京裁判ハンドブック(青木書店)には『このパール判決書は、過去の「大東亜戦争」を肯定する人々によって、「日本無罪論」の代表的見解として流布されている。しかし、パールは捕虜虐待や非戦闘員に対する大規模な残虐行為がおこなわれたこと自体は否定できないと述べている。ただ被告らの不作為が立証されなかったと述べたのであつて、必ずしも「日本無罪」といっているのではない。
 このパール判決書の評価をめぐつて、歴史学者家永三郎と『勝者の裁き』の著者マイニアとの間に論争があつた。マイニアは、パール判決書が日本国内の党派争いの対象にされてしまったこと、とくに「右翼は戦前の政策と政治指導の弁護の手始めをパールに見出している状況を述べ、このため家永はパール判決書に敵意ある態度をとり、パールの主張を誤解したと批判した(「パール判決の意義」)。しかし、のちにマイニアも東京裁判は欠点のある裁判ではあるが、「日本は無罪ではない」(『東京裁判を問う』)と述べ、家永との共通性を強調した。』と書かれています。
 パール判事が指摘するように国際法違反の原子爆弾は東京裁判では裁かれませんでしたが、靖国神社が主張するように東京裁判「全否定」の立場は、サンフランシスコ講和条約で【前文】「日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守し、世界人権宣言の目的を実現するために努力し、国際連合憲章第55条及び第56条に定められ且つ既に降伏後の日本国の法制によつて作られはじめた安定及び福祉の条件を日本国内に創造するために努力し、並びに公私の貿易及び通商において国際的に承認された公正な慣行に従う意思を宣言する」とした「国際公約」は一体どうなつてしまうのでしょうか。

靖国神社参拝推進派の本心

 安倍晋三首相が4月21〜23日に行われた靖国神社の春季例大祭に「内閣総理大臣」名で供物を奉納していたことが、同神社や首相周辺の話で分かりました。5万円の「真榊(まさかき)」と呼ばれるサカキの鉢植えで、ポケットマネーで支払ったそうですが憲法違反であることは自明の理です。靖国神社によると、首相による奉納は1985年8月15日の中曽根康弘元首相以来、約22年ぶりだそうです。
 自由民主党は5月24日、東京都千代田区の九段会館で「新憲法制定推進の集い」を開き、安倍首相は、現行憲法が米占領下で制定されたことを強調し「基本法である以上、その成立過程にこだわらざるを得ない。自民党総裁として、憲法改正を必ず政治スケジュールにのせる」と改めて改憲への意欲を表明しました。出席した、新憲法制定議員同盟の会長も務める中曽根元首相は、自民党草案については「前文には日本の文化、歴史、伝統が入っていなければならない」「政治の一番の中心にある国家統治、統治権の本流。日本国家の全体像を表すものでなくてはならない」(5月15日読売新聞)と修正の必要性も指摘しましたが、ここに彼ら靖国神社参拝推進派の本心(皇国史観)が表れています。
「宮内庁長官メモの報道以来、『昭和天皇はA級戦犯が合祀された靖国に行かなかつた。だからA級戦犯を分祀するべきだ』という自民党の山崎副総裁などの分祀論がありますが充分に注意しなければなりません。分祀論者も尽きるところは天皇の参拝であり、中曽根元首相たちと行き着く先は同じなのです。

靖国神社の平和案内人

 『靖国神社は、その施設自体が「忠君愛国」思想を国民に植えつけるための国民教育の「場」という性格を色濃く持っています。この性格は、かなり薄められたとはいえ、戦後も基本的には変わつていません。付属の軍事博物館である遊就館は明治維新以来77年間の日本戦争史を正しかった、悪いのは中国だ、アメリカだと云う立場での展示です。したがって、見学にあたつては、常に批判的な精神が求められることになります。しかし、この批判的精神さえ、しつかりしていれば、戦争の時代を追体験するという意味でも、多様な歴史教材を豊富に提供してくれるという意味でも、靖国神社は、とても興味深い空間です。 境内には、戦死者の遺影などを前にして涙ぐむ老夫婦や亡き父に会えると手を合わせる息子、娘などの姿が、そこかしこにみられ多くの遺族にとつて追悼の場となつています。(一橋大学教授吉田裕)』こうした人々の思いに対する配慮をしながらも靖国神社と遊就館を見学して平和憲法を学んでいただきたいと思います。
平和活動家の立場から見ると靖国神社は第一級の戦争遺跡なのです。

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齋館(天皇のお休み処)
木造だったが鉄筋コンクリート造に改築した。しかし昭和天皇は利用していない。春秋の例大祭には勅使が宮内庁からここに到着、正装をしてから本殿に参向する。



勅使参向





京都市東山にある「京都霊山護國神社」の齋館

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