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独りディナー
まさに、シニアライフ
2017年11月20日
テーマ:一人暮らし
昨日は、午前中教会へ行った。
その寒さは殆ど、冬の厳しさであった。
帰ってきたときは、昼食の準備をする元気も無いほどに疲れていて、駅からの途中にあるコンビニで、お弁当を買ってきた。
レストランに入る元気も、残っていなかった。
帰宅してからも、用事はいくつか残っていたけれど、手をつける気力が無くて、前日お気に入りに入れてあった古い映画などを、ネットで見て時を過ごした。
ここまでして、信仰を得た訳でもない教会へ通うことがあるのだろうか、と当然自問したのだが・・。
詰まるところ、私はこれからの老後の時間を過ごす、居場所を何処かに探しているのだ。
教会は、少なくともスタンスとして、来る者は拒まない。
現在は、牧師先生のお説教を聞きに、ちょっとカルチャースクール的な意味合いも込めて、通っている。
教会での居場所を少しでも作るために、ピアノを弾いたり、入門講座に席を置いたりしている。
私の人生には、キリスト教が、幼い頃からずっと身近にあった。
まず、父が大学卒業後、数年間ミッションスクールの先生をしていた時代があった。
父と母を結びつけて下さった母の恩師は、敬虔なクリスチャンで、その影響か、我が家にはキリスト教に関する本が色々あった。
親戚にも、クリスチャンが居て、誘われて日曜日に教会へ通っていた頃もある。
だが其処には、非常に大きなバリアが、私にはあった。
父は、ミッションスクールに勤めていた時代に、神父さん達の裏側に接して、その後極端な位のアンチ基督教となっていた。
私が、教会へ行くことを遮る事は無かったけれど、信仰心が芽生える環境からは、程遠かった。
長じてからも私には、依然として、一線を越える決断はやってこなかった。
ヨーロッパに住んで、西洋音楽を学びながらも、日本人である自分が、キリスト教からは如何に距離があることか、そこに視線は向いていた。
30才で結婚した相手は、科学者だったし、超がつく位のアンチ基督教でもあった。
アンチ基督教、というよりは、クリスチャンに対しての反感が、極めて強かった。
私自身も、色々なクリスチャンとの接点で感じたことでもあるし、敢えて夫婦喧嘩をしてまでも教会に通おうとは思わなかった。
でも、今一人暮らしになって、いわば自由人となった私は、教会に居場所を求めている。
これが、救いを求めているのなら、まだ自分でも納得できるのだが・・。
果たして何時の日にか、居場所が、救いの場、となるのだろうか・・。
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澪さん
コメントありがとう。
一人暮らしになって変わったのは、行動に制限が無くなった、と言うのが一番大きいですね。
主人が亡くなった時、私には悲しいとか寂しいという気持ちはありませんでした。
長かったこともあり、ずっと一緒に歩いてきたので、呼吸を止めた後も、何も変わらないと思いました。
むしろ、主人はす〜っと私の中に入ってきて、これからは何時も一緒にいるのだという、おとぎ話のような感覚でした。
ドラマを見てすぐ涙を流していた私は、現実では泣くという事もありませんでした。
むしろ、一人になってからは、ドラマを見ても泣かなくなりました。
澪さんの文章を読んで、本当に悼み方は人それぞれだな、と思いました。
年齢にも寄るでしょうね。
ご自分と、お子さんの・・。
私は、自分自身も既に、老後に入っているからかもしれませんね。
2017/11/24 07:43:21
師匠
私は、旧約聖書は半分も読んでいません。
数年前、私がお邪魔している教会で、一年掛けて皆で聖書を読もう、という会がありました。
月に一度集まって、お互いに感想などを述べる、という会で、私もお仲間に入れて戴きました。
確か、後半は主人の病気が理由だったのか、12回は通いませんでした。
その時に、読みはじめた旧約聖書が、殆ど頭に入ってこなくて、最初の創世記で、気持ち的には挫折してしまいました。
今、お返事を書くに当たって、「ヨブ記」を開いてみましたが、ちょっと読み切れそうにありませんでした。
以前にお会いした若い牧師さんは、信仰心と、旧約聖書を信じるかというのは、別に考えた方が良い、という事を仰ってました。
ちょっと受け入れる事ができそうに思えました。
今までは、軸足がアンチ基督教である家庭にありましたが、これからは自由人ですので、じっくり考えて行きたいと思っています。
2017/11/24 07:35:13
彩さん
コメントありがとう
信仰心とは、定義は難しいのかも知れませんね。
私は確かに、信仰心は持って居ると思っています。
でも、それが毎週通っている教会の神様とは、いまのところ一致しない、というのが正直な気持ちなのです。
でも、教会へ行って牧師さんのお説教をきく、と言うことが、今は拠り所になっています。
2017/11/24 07:32:35
申し訳ありません。
皆さんから戴いたコメントには、真剣に向き合ってお返事したいと思います。
現在、諸々の手続きで、ちょっと手が離せない状態になりました。何とか目処が立ったら、お返事を書きたいと思います。
2017/11/21 16:01:34
心の居場所
シシーさん
ご主人を送られてもう直ぐ半年・・・
そろそろ覚醒の時が来る頃でしょうか。。。
私にもそんな時がありました!
心に空いた穴を何かで埋めようと、
心が彷徨っていた時期がありました。
一番の気持ちの切り替えになった事は、
まだ幼かった娘の一言でした!
時折涙を零している私を見ていたのでしょう。
「ママが泣いていると、私も悲しくなるから・・・」
その日から、涙を見せない強い母親に変わって行った事を覚えています!
シシーさんは自分の事だけ考えて行けばいい立場です。
ゆっくりと心の疲れを癒して・・・
そのうちに、自然に「心の拠り所」が見つかりますよ♪
信仰でも哲学でも、友達でも趣味でも仕事でも・・・
気が付いたら夢中になっていた・・・なんてね〜♪
2017/11/21 09:34:07
人それぞれ
彩さんのおっしゃる通り。
足が向くなら、その足の向きを、ことさらに変えることも、ありますまい。
自然体でよろしいのだと思います。
お父様の気持、よくわかります。
垣間見えてしまった、聖職者の裏の顔(実の姿)から、
その説くところの、形而上学に疑問を抱き、信奉を捨てる。
それは、他の宗教を含め、間々あることです。
旦那様の気持もよくわかります。
私は特に、科学を重視する人間ではないのですが、
それでも、聖書を読んで(特に創世記)これを信じるわけには、
行かないと思いましたから。
そしてまた、「ヨブ記」
ここに至り、これは私には、とても無理だと思いました。
しかし、曽野綾子さんなどは、同じく「ヨブ記」をお読みになり、
ますますその信仰が強固になったとおっしゃっています。
同じ書物を読んでも、受け止め方は、人さまざま。
どころか、正反対。
しかし、これでよろしいのだと思います。
シシーマニアさんが、足繁く教会に通われたとしても、
お父様、旦那様共に、否やは申されないでしょう。
苦笑くらいは、するでしょうけれど……
2017/11/21 07:22:33
「信仰の自由」
こんばんは。
シシ―さんが教会に通っておられるのは
オルガン伴奏を頼まれることもあり、
聖書の勉強会などにも参加するためかと
思っていました。
教会内に入ると、落ち着くとか、自分との
対面が静かにできるとか…
きっと、何らかの精神の向上につながって
いるからなのでしょう。
教会に導かれるように、足が向くうちは
通われたら良いと思います。
信仰は自由ですから。
私はある時を(近年です)境に、無理を
するのは止めようという思いに至ったので
今は、教会生活(?)を引退しましたの。
信仰心という事では、今も自分の心の
中に持ち続けているつもりですが。
2017/11/21 03:20:33