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岩国城〜さくら〜石垣 

2011年04月20日 外部ブログ記事
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岩国城

噴水と天守


家老・香川家長屋門

元禄前期の建築と伝えられ、岩国では最も古い建物の一つで、県の文化財に指定されています。

香川家は安芸武田氏に属していましたが、光景の代に毛利元就に属して厳島合戦等に出陣 
以後、毛利軍の先鋒となり毛利氏の中国制覇に貢献しました。

光景の長男・広景は毛利本家に従って萩藩家臣となり、その弟春継は吉川元春に従って功があり、
のち岩国藩の家老となりました。


しろへび観覧所のしろへび

五匹くらい木の先で固まっています。なぜかこの一匹だけが動き回っていました。
1.8Mあります。

ガラス張りの中で蛍光灯の反射や人の写りこみで撮影が難しかったです。
青大将のアルピノで岩国にしか棲息しない蛇ということですが
私が子供の頃、広島でも何回か見たことがあります。
神々しい蛇です。


ロープウェイで山頂へ
「錦雲閣」 (きんうんかく)
明治十八年 (1885) 旧岩国藩主吉川家の居館跡が公園として開放された際
旧藩時代の矢倉に似せて造られた絵馬堂です。


錦帯橋
延宝元年(1673)十月一日竣工
三代目吉川広嘉(ひろよし)は病気療養の際、明の帰化僧で医師でもある独立を岩国に呼び治療を受けていました。
明文化に関心のあった広嘉は、独立の所持する「西湖遊覧誌」という書物に興味を抱き、
これを拝見する機会を得ました。

そこには湖に点在する島づたいに石橋がかかる挿図がありました。
この挿図から小島のような橋台を造り、そこに頑丈なアーチ型の橋を架ける錦帯橋の着想を得ました。

広嘉は、側近から児玉九郎右衛門を選び、架橋事業の任に当たらせました。
当時の岩国藩には既に、架橋に必要な高度な石積み、木組みの築城技術が導入されていたようです。



井戸



天守閣
岩国城は慶長十三年(1608) に初代岩国藩主の吉川広家が、錦川に囲まれ天然の要害の地である
横山の山頂に築城しました。

しかし幕府の一国一城令により、築城より僅か7年後の元和元年(1615) には取り壊しとなり、
政務は山麓の居館 (現在の吉香神社付近) で行われました。



毛利家では周防国、長門国の二令制国で一城というかたちになりました。

毛利家では萩城を残して岩国城などを破却し幕府に報告しましたが幕府の反応は

「毛利家は周防国、長門国の二国だから周防国の岩国城まで破却する必要はなかった筈」
というものでした。

幕府への遠慮や毛利家内部の支藩統制上の思惑もあり先走って破却が行われたと考えられています。


現在の天守は昭和三十七年(1962) に外観復元されたもので、四重六階の桃山風南蛮造です。

復元の際、錦帯橋からよく見えるよう、旧本丸の約50m南側に位置を変えています。
現在、天守内には刀剣や武具甲冑類が展示されています。

一国一城令による取り壊し後、幕府より石垣も破却するよう命じられ、天守台も破壊されました。
しかし下部約1/4が地中に埋まって残っており平成七年 (1995) に古式穴太積 (こしきあのうづみ) 石垣が発掘復元されました。
また北ノ丸の石垣や空堀などの遺構が現存しています。





本来の天守台(復元)



空堀
あまり知られていませんが日本最大の空堀だそうです。

上から

下から


岩国城案内図


石垣

岩国城は石垣がよく残っています。
今回は北の丸広場外の石垣を巡ってきました。
約400年前の石垣で古式穴太積 (こしきあのうづみ)です。




崩されている所もあります。


天守前あたり

出丸下

出丸

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