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人生いろは坂
信仰の心・自然を敬う心
2018年02月14日
テーマ:テーマ無し
昨年の夏もそうであったが、冬になったらなったで異常続きだ。ここのところ数年間は異常気象が当たり前に
なってきている。そして報道ではしばしば「過去に経験したことのない」と言ったような表現が使われている。
異常低温と大雪、このような冬がこれからは続くようになるのだろうか。
さて今日は信仰について考えてみたい。信仰は、私たちが制御できない圧倒的な自然の力に対し、畏敬の念から
始まっている。原始宗教の多くが自然崇拝であった。それほど自然は未知なるものであり、いつ何が起きるか
分からない存在であった。
一番良い例が天候である。今でこそ気象学なるものが発達し、様々な観測器具が考案されるに及んで少なくとも
一週間ぐらいの単位であればお天気の予測が出来るようになった。観測技術が飛躍的に向上したことと、過去の
膨大なデータとをコンピュータという武器で解析すれば、かなりな制度でお天気は予測できる。
しかしながら、少なくとも江戸時代までは全くと言って良いほど気象予測は出来なかった。老練な漁師や船乗りが
経験に基づいて、この風が吹き始めたら、あるいはこの雲行きだったら、更にはあの山に雲がかかり始めたら天気は
急速に悪くなる。これくらいのことであった。
しかし、旅をする人達にはそのような情報はなく、また伝える手段もなかったので旅の途中で急速に嵐に襲われた
等と言うこともあったはずで、天は恐ろしいもの予測しがたいもの、そうしたことは天の怒りとして恐れられたので
あった。
当然のことながら恐怖から逃れるには神仏に頼るしか方法がなかった。ただただ何事もなく嵐が通り過ぎるのを
手を合わせて待つしかなかった。
しかし現在はどうであろうか。過去には恐ろしかったものが科学技術の著しい進歩によって、恐ろしいとは思えなく
なってきた。そのことが人間を傲慢にさせ、神仏に手を合わせることを忘れさせてしまった。
今や日本ではお正月やお祭りなどイベントとして神社に詣でることはあっても常日頃、神仏に手を合わせることは
ほとんどなくなってしまった。そして人々の信仰が薄れた村の鎮守様などでは、神主もいなくなり荒れるに任せ
朽ち果てようとしている。
余談になるが、神社仏閣は単なる建物と言うだけではなく、その境内や背後の山を含めて信仰の対象であった。
また人々の神仏に寄せる思いが集まった場所が神聖な場所として崇められてきた。そして心の拠りどころとなり、
心の支えとなって霊験あらたかなる場所を醸し出してきた。
言わば人々の信仰心こそが様々な奇跡をもたらし、単に心安らぐだけでなく、私たちを災害から守ってくれ、
更には病気さえも癒やしてくれたのである。
しかし、人々の心の中から信仰心が消え、神社仏閣は蝉の抜け殻のように中身のないものになってしまった。
神主のいない荒れ果てた神社仏閣では人を救うことも出来なければ奇跡も起こせない。
さて、人間は本当に自然を克服し得たのであろうか。否、まだまだ自然現象には不可思議なことも多い。
更に人間の欲望によって生じた地球温暖化が大きな問題を投げかけている。そして、それに伴う予測しがたい
様々な気候変動が相次いでいる。
地球は、温暖化による気候変動によって、もはや制御不能な状態になり始めている。これから生きて行くには、
我々の祖先達がしてきたように恐れおののいて、ただただ手を合わせて見ている他はないのではないか。そのような
気がしてならない。
夏の異常高温、相次ぐ洪水被害、そして熱帯低気圧の大型化、冬の異常寒波、大雪、冬の嵐等々である。神仏を
恐れぬ数々の所行に対し、聖書の中の「バベルの塔」の一説のように、天からの厳しい鉄槌が下されようとしている。
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