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利神(りかん)城 登城ならず。 

2011年05月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

利神(りかん)城跡今回のツーリングのメインの予定だった利神城跡でしたが、登城を断念しました。
道の駅で利神城のことを聞くと石垣の崩落がひどく、最近は怪我人まで出ており
地元としては出来れば登って欲しく無いとのことでした。



数日前にまとまった雨も降っており無理して登ることも無いので諦めました。




歴史
貞和五年(1349)赤松氏一族の別所敦範によって築城。
赤松氏の居城であった白旗山の北の守りとしての役割を成していました。



嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱によって赤松氏と共に別所氏も滅亡しました。
文政元年(1466) 別所氏後裔の別所治定が城を奪回します。



秀吉が中国攻めに進攻すると時の城主別所定道は羽柴氏に恭順の意を示しました。
病弱な兄に代わり城主となった別所林治は本家筋にあたる三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻すとこれに従います。

天正六年(1578)織田方の上月城主尼子勝久と家臣の山中幸盛(鹿之助)に攻められ落城しました。

同年、上月城が毛利氏に攻められ落城し、利神城は毛利方に属していた宇喜多直家の所有となります
慶長五年(1600)の関が原の戦いまで宇喜多氏の所有でした。



関ヶ原の戦いの後、播磨には池田輝政が入封し、慶長六年(1601)輝政は甥の池田由之に
平福領2万2千石を分与しました。由之は5年の歳月を要して城を大改修します。

城を見た輝政はその豪壮さに驚き、江戸幕府の警戒を恐れて天守の破却を命じました。

由之は慶長十四年(1609)に備前国下津井城の城番として転出し、この時点で三重天守など主要建造物は取り壊されていました。

元和元年(1615)輝政の6男輝興が2万5千石を与えられ平福藩が立藩し城主となりました。

寛永8年(1631)輝興は兄の政綱が継嗣無くして死去したことにより赤穂藩を嗣いだため、平福藩は廃藩となり利神城も廃城となりました。

以後、この地は旗本松平氏の所領となり宿場町の一角に代官の陣屋が構えられました。
                      (ウィキペディアより)


ふもとの道の駅平福より利神城を見上げる。

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平福は朝霧の名所で江戸時代初期には天守があり
その姿が霧の上に浮かんだ偉容から雲突城とも呼ばれました。
三重の天守を構え、曲輪を全て石垣で築き回廊で結んでいました。
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道の駅の人に利神城を尋ねると
最近怪我人が出ているし崩落もひどいので地元としては登って欲しくないとのこと

数日前、まとまった雨も降っているし只でさえ険しい山なので今回は断念することにしました。

道の駅ですこしのんびりすることに・
しかコロッケを食べてみました。

あっさりしてて美味しいです。
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平福陣屋跡
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平福本陣。門しかありません
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平福の町並み
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平福駅と利神城
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川端の土蔵
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登りたかったです。

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しつこく望遠で
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佐用名物・ホルモン焼きうどんを食べに、「新さち」さんに寄りました。
あとで知りましたがここは老舗の有名店でした。
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鉄板が満員だったので皿でいただきました。
味噌ベースで旨い!!! しかも500円と安いです。

あまりホルモンは好きではないのですが、ここのは気にならず食べられました。
もう一皿頼もうかと思いましたが、団体が入ってきたので断念。
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次は上月城に向かいます。

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