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帝国陸軍二等兵として 「五十年目の伝言」から 

2018年05月11日 外部ブログ記事
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帝国陸軍二等兵として
茶 山 克 巳

 私の軍隊生活は終戦間近の短期間、しかも内地だけでした。それでも侵略戦争遂行集団としての帝国陸軍の不合理さとデタラメさをかいまみることができました。
 私の経験した軍隊生活をまとめてみました。

 なぐる蹴る
 私の初入隊は一九四四(昭和十九〉年二月。
 金沢の輜重連隊でした。
 入隊の日だけは「お客さま」、早速翌日から「なぐる」「ける」が始まりました。
 「班長殿の靴をみがかなかった」「上等兵殿の洗濯はどうした」、夕食後ほっとしていると整列させられ、「貴様ら最近たるんでいる!」、その気になれば何でも理由になります。
 また、気をきかせたつもりで、しなびた野菜を厩にもっていくと、「お前らの喰えない物をお馬さまに喰わせる気か」となぐられ、どこかの隊の逃げ回っている馬を、見兼ねて追いかけてつかまえた途端、「貴様、放馬しやがって!」と問答無用、鞭で将校にやられました。
 そうなれば、こちらも抵抗力を身につける以外にありません。何といわれても「ハイ」「ハイですむと思うか」「ハイ」、「俺をなめやがって!」「ハイ」、「ハイ」の度にやられますが、下手な言訳をすればその分だけ余計にやられます。最短距離で最も被害が少ないのが「ハイ」なのです。「なぐられて痛いと感ずれば生きている証拠」と達観すれば一人前です。
 なぐる側にも、夢がもてない自分の青春と人生への不安や、軍隊への不満が鬱積しているのです。
 こうして、自分の頭で考えない、どんなに辛くても、不合理なことでも、無条件で服従する兵隊がつくられ、「上官の命令は天皇陛下の命令と心得ろ」とする帝国陸軍を支える骨格がつくり上げられていたのです。

 貝数合わせ
 入隊の時に、全員が褌を除く一切の被服などを支給(貸与)されます。
従ってみんなが一式そろえて持っていなければならないはずです。ぞれが何時の間にかなにかが足りなくなります。そうなったら大変、他人の物を盗んでもそろえなければなりません。
これを「員数合わせ」といいます。
 どうしてもそろえられない者は、親しい者が不寝番の時に頼むのです。不寝番というのは緊急時に備え、また盗難除けのため、交替で徹夜で警戒に当る者のことです。その不寝番に員数合わせをやってもらうのですから、警官に泥棒をやらせるようなものです。
 それでも、お互いにトランプのババ抜さをやっているようなもので、誰かが何かを失くしていることには変りありません。
 それが上官に見つかると、「員数合わせてこい」と命令されます。時には班全体の責任にされることもありました。
 新兵だけでは間にあわないとなると、こっぴどくやられますが、不思議なもので、上等兵などが必ずどこかから調達してきました。
 このような 「員数合わせ」も、戦地で略奪をやる訓練になっていたのかも知れません。

 入隊を前に結婚Lてきた若者たち
 召集令状がきてから入隊までの十日足らずの間に結婚してさた者が何人かいました。
本人がいないと田畑を耕せない、そんな農家では、留守の間の労働力がどうしても必要なのです。そのため、親戚などが集まってお嫁さんを決めたとのことです。
 農繁期では一升飯を食っても痩せると彼等はいいます。それでも地主に年貢を納めるのが大変なのに、働き手がいなくなったらどうなるか、このようにして結婚話が決まります。その数日後、この若者がどんな気持ちで入隊したのだろうか。また自分とは無関係に親戚等が、決めた結婚に、黙って従う花嫁の想いはどうだったのか、そこに当時の農村の姿があったのです。
 農民だけではなく、職人も労働者も業者も、留守家族には何の保障もありませんでした。
 何日かの新婚生活の後、花嫁とわかれてきた戦友の中には、そのまま戦地に送られ、帰らぬ人となった者もいます。
 留守家族のことが心配で、後髪を引かれる想いで軍隊にきた多くの若者たち…、このような庶民の悲惨な犠牲の上に天皇の軍隊が成り立っていたのです。

 幹部候補生士志願からのがれる
 初年兵教育が終ろうどする頃、中学(旧制)卒業以上の者が整列させられました。「学校で軍事訓練を受けているからみんな幹部候補生を志願する資格がある。意志のあるものは手をあげろ」というのです。幹部候補生になれば、一年で将校(悪くて下士官)になり、特別に早く出世がでさるのです。
 中学卒業後上京して、親しくしていた友人の中に、軍隊が嫌いで徴兵延期のために(学徒動員の際に廃止}、わざと大学を留年している者がいました。彼の交友の何人かは同じ考えでした。私はその影響もあり、反戦とまではいかないが厭戦気分があり、軍隊で出世しようという気などなく、志願する意志は全くありませんでした。
 しかし、みんなが挙手しているので、私もつい手をあげてしまいました。ところが、一人だけあげなかった青年がいました。新兵をドンドン召集する、幹部が足りなくなる、だから幹部をつくるという軍の要請に楯つくような行動をたった一人でとることがどんなに勇気を必要としたことか。
 私は悩みながらも、彼の勇気に励まされ、正式な手続さ直前に志願辞退を申し出ました。寄ってたかって、気が遠くなる程なぐられ蹴られた後、やっと辞退が認められました。
 彼が何故あんな行動をとることができたのか、その後どうなったのか、全く知るよしもありませんが、今も忘れられない人の一人です。

 営庭に雪があるのに夏服で戦友は野戦に
 相前後して、「今から野戦要員を発表する」と半数の者が呼ばれ、真新しい銃や半袖、半ズボンの軍服などが渡されました。
「野戦要員は完全武装で整列」と非常呼集がかかったのは、何日か後の真夜中でした。
 肩にした銃に巻かれた真っ白の包帯が暗い中でも眼にしみるようでした。営庭にはまだ残雪があるのに、南方にいくとしか考えられない夏服姿で、「歩調とれ」と靴音高く営門から消えていくのを、見送りました。
 本人達もどこへいくのかも知らされず、まして、彼等の家族がいま自分の肉親が戦地に向っているとは夢にも知らないで眠っているのかを思うと、私は泣き叫びたい想いで涙をかみしめていました。この中には、結婚して直ぐ入隊してきた青年の顔もありました。
 戦後の話では、彼等は軍艦に乗ってサイパン島に向かい、サイパン戦には間に合わず、結局はテニアン島にいったといいます。テニアンの玉砕、全員戦死は一九四四年八月二日、彼らが金沢を出発して四ケ月後のことです。

 「お別だけ帰って恥かしい」と嘆いた母
 補充兵で入隊した私達は、その後間もなく、幹部候補生要員だけを残して除隊になり、私は富山県氷見町の母の元に帰りました。
 正直なところ「ホッ」とした思いで、母も喜んでくれるだろうと思っていました。
 しかし母は、二人だけになった時に、「お前だけ帰ったことが恥かしい」と嘆さました。
 私の母は三八才で夫を亡くし、中学二年生の長男の私を含め、八人の子供を女手一つで苦労して育ててきたのです。
 その母が、自分の息子が無事に帰ってさたことを喜ぶより、世間体を気にしなければならない世の中でした。そんな時代の流れの恐しさ、残酷さを今でも考えることがあります。

 再入隊した本土決戦部隊とは
 終戦の年の四月十三日、私は当時の牛込区の山吹町の長屋で戦災に会い、落ちつき先も決まらないうちに、二度目の召集をうけました。
 この部隊は富山師範学校(今の富山大学}に駐屯しましたが、米軍が関東地方に上陸したら、千葉、埼玉などに配属されている部隊がもちこたえている間に、徒歩で駆けつける最後の本土決戦部隊で、しかも制空権は敵が握っているため、夜間行軍しかないというのです。装備といえば、小銃は四人に一丁、帯剣は三人に一振り、最大の武器は中国大陸から引さ揚げてきた大砲が二門という貧弱さです。
 俺達も助からないだろうが、俺達が死ぬ時は日本も終わりということか…、こういう雰囲気が部隊全体をつつんでいました。

 爆雷もろとも戦車にむかう演習
 銃も剣もろくにないのですから、毎日やることは、大八車に戦車の模型を乗せて何人かで全速力で押してくるのを、こちらで爆雷の模型を持って伏せていて、立ち上って車輪の下を目がけて爆雷を投げつけて素早く「伏せ」(爆発から身を守る低い姿勢〉をする練習でした。しかし爆雷が重いので、うまく伏せてもこちらが助かる程遠くまでは投げられそうもありません。
 休憩中私は、小隊長に「爆雷の破壊力は半径どの位ですか」ときき、投げられる距離が、その範囲内なので、「それでは投げた後どんなにうまく伏せても助かりませんね」というと、むっとした表情でしたが、何もいいませんでした。その後、この小隊長もこの演習にはすっかり熱意を失ったようでした。
 わが本土最後の決戦部隊も、爆雷を背負って敵の戦車の下敷になるという、特攻隊と同じ運命だったのです。

 兵隊は空腹 将校は宴会
 終戦近くなると、軍隊も食糧難で、兵隊はみんな空腹で、食器を洗った時の飯粒を拾って食べている者もいる程でした。
 ある日、使役(演習以外の労働)に出ろといわれて、出てみると炊事の倉庫から米を荷車に何俵か積み、酒屋まで運び、そこで日本酒と物々交換して隊に帰りました。
 その晩は将校の会食(宴会)です。将校は営外居住ですから、営内の米は基本的にそこで生活する兵隊の食料です。それを兵隊を使って酒に変えさせ、将校だけで堂々と宴会をやる。こんなことが通用するのがわが帝国陸軍の姿でした。
 私はまた、使役に出されました。お爛番をしながらチビチビ飲んでいると、戦友が班長の命令でコッソリ飯盒をもってさました。それに酒を入れてやる。何回か繰り返しました。その横流しの酒も、班内では、初年兵の口には入りませんでした。

 空襲で部隊は全焼
 八月一日の空襲で富山市は全滅、多くの死傷者が出ました。私の部隊からも少なからぬ死者が出ました。
 混乱の中で「茶山さん」と声をかけたのが、山吹町で一緒に焼け出された印刷工の古川さんの奥さんでした。幼い二人の子を連れていました。東京で焼けてまた富山でも、と思いながら何の力にもなってあげられませんでした。
 今でもその後のことが気になります。
 戦後読んだ資料によると、米軍が、サイパン島などをB29の基地にして、終戦の年の三月までには本土空襲をはじめる、そのために一九四四年十月までにサイパン島などを占領する、と決定したのは一九四四年三月でした。サイパン島は予定より三ケ月早く占領しています。
 全てがアメリカの計画通り進められ、その結果、多くの都市が焼かれ、人々が殺されていったのです。

 終戦を迎えて
 私達の部隊は兵舎も焼かれ、夜行軍で黒部川のほとりまでいき、桜井町で駐屯しました。
 広島にものすごい新型爆弾が落とされた、ソ連が参戦したなどの暗いニュースが続く中で八月十五日、天皇のラジオ放送を聞きました。「戦争が終わった」とホッとした気持ちでした。
約一ケ月後除隊になり、牛込区役所に復帰しました。

 一歩二歩と歩き初める
 民主化の嵐の中で職場でも労働組合づくりが始まり、私は「あの暗黒時代に日本共産党が侵略戦争に反対して斗っていた」という事実をはじめて知り、感激そのものでした。
 しかし、天皇制については理屈では解っても、簡単には否定的になれませんでした。
 その中で、戦前、弾圧されながら斗ってきた組合幹部が労働学校を組織し、「空想から科学へ」等々、古典も含めて基本的な学習をさせてくれました。
 そして、侵略戦争の本質や、民主主義蹂躙や人民弾圧の戦前の支配体制、その根幹であった天皇制の役割などが理解できるようになりました。
 間もなく、私は自分から日本共産党に入党を申し込みました。
 これは私の第二の人生への出発であり、平和 民主主義 何よりも働く者の生活を守ろうという私の決意の表れでした。
 その後、東京都職員労働組合の幹部として活動中、一九四九年九月、レッドパージで新宿区役所を追放され、牛込民主商工会の事務局長を経て、区議、都議の活動を始め、一昨年(一九九三年)四十二年間の地方議員活動に終止符を打ちました。
 戦前から戦後へ…、私にとって、全く異質の道を歩いたように思いますが、一方、冬の間、土の中で育ちつつあった球根が、春を迎えて芽をふき、成長してきたような、当然の道であったような気がします。

故都議会議員茶山克己さんと管理人

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