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悲劇の斗南藩 

2018年06月16日 外部ブログ記事
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斗南藩(となみはん)苦難の道をゆく(半島をゆく 歴史解説編 下北半島)

 ☆会津藩主松平容保、戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦
 (容保23万石の所領を没収されて蟄居)
 ☆容保の嫡子・容大(かたはる)が陸奥に3万石を与えられて斗南藩を立藩した
 ☆斗南藩というのは明治になって生まれた藩

明治時代に立藩された斗南藩とは
 ☆現在の青森県五戸町が斗南藩の仮の藩庁した
 ☆下北半島は、火山灰によって形成され元来農業には不向きな地
 ☆新藩主・松平容大と生き残った旧会津藩の藩士とその家族たちが移住した
 ☆藩は北方流通で利益を上げないと、藩士とその家族を養えなかった
 ☆藩は大湊に着目した
 (半島特産の昆布、海苔、帆立貝柱、干鮑などを中国に輸出するという構想)
下北残酷実話
 ☆会津藩士たちは自由に落ち着き先を選択できた
 ☆新領地斗南に移住した家族2,800戸(会津210戸、農商になる者500戸他)
 ☆斗南藩に移住した家族の生活困難を極めた
 (政府から藩に支給された扶持米が、一人あたり一日3合)
 (零下20度を超える寒さと食糧不足から、冬を越せなかった者いた)
 ☆会津に残留していた人々も悲惨の極み
 (前年が凶作で、藩が用意した宿札では十分な待遇が得られなかった)
大義なき戦いだった戊辰戦争
 ☆家督の松平容大が幼少で、家老と小参事2名の3人を中心に藩政は運営された
 ☆戊辰戦争は、薩長両藩による「大義なき戦い」だった
 ☆最後まで京都守護職を務め通した名門・会津松平家
 (「朝敵」とされたのは、そもそもあり得ない話)
 ☆会津藩の人々の人生は、この非道な戦争で挫折を余儀なくされた
 ☆厳しい自然環境のなかで、会津藩士とその家族達は、飢えに耐え生き延びた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、ヤフーニュース(三重大学藤田教授)






悲劇の斗南藩(ヤフーニュース、ネットより画像引用)

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