メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

昭和2年生まれの航海日誌

 候伯子男とちゃんやん階級 

2011年05月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



      もう一人の達人は忠吾やんだった。
     生育ったのは、蔵が三つあって自作農を営む在所では
     れっきとした家柄であった。

      夏が終わるころ、兄と川淵を歩いて行くと、大勢で瀬取
     りをしていた。川上の方に一人だけぽっんと忠吾やんが
     立っていた。見張りをしているようだった。

      近寄って笊をみると、獲ったばかりのフナ,モロコ、ナマ
     ズ、カニ等が跳ねたり動いたりしていた。なかでも一際目
     ひたのは、ウグイで一尺ほどのものだった。

      その中に、忠吾やんがウグイを掴んで、
     「これやるわ」と云った。
     二人は喜んで急いで飛ぶようにして帰った。

      忠吾やんを傍で初めて見たのはこのときだった。
     丈が5尺4寸、目方が14貫くらいで幾分華奢な感じがした。

      「正やんの馬に忠吾が乗って競馬にでるから行こう」と
     親父が言って友達を誘い三人で宮川の河川敷へ出かけた。

      小高い所い腰をおろして観戦した。
     でたぞ!というので目の前のゴールを見ていたら栗毛の
     馬が2着で飛び込んできた。これだとすぐ判った、
     騎手の忠吾やんが着物で兵児帯を締めていたからである。

      年が明けて、2月,恒例の「どんど焼き」で、御宮の旧材
     を焼きつくしオキになり始めた頃、一頭の馬がきて、忠吾や
     んが降りてきた。

      皆が歓迎して、珍客を交えての世間話に打ち興じた。
     久し振りに郷里のどんど焼きで身も心も温まった忠吾や
     んは、謝礼をのべて、馬上の人となった。

      村外れまでゆっくり歩いて,ダクに移った。
     夕闇が迫って姿がだんだん薄れていく、蹄から発していた
     火花も消えてしまった。

      忠吾やんが亡くなったと聞いたのはそれから2カ月経って
     からのことだった。

      そんなこともあって競馬と縁が繋がったようだ。
     競馬場へ行く度にあの人たちも一度は来てもらいたかった
     と思う。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ