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平成の虚無僧一路の日記

小日山運輸大臣の終戦 

2018年08月27日 外部ブログ記事
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私の叔父(父の兄)「牧原源一郎」は、終戦時、衆議院議員で、同郷(会津)の
「小日山 直登・運輸大臣」の秘書官だった。『小日山直登氏を偲ぶ』
という本を上梓している。それによると・・・・・
「小日山」氏は 満鉄総裁から関東軍の推薦で、昭和20年5月1日、
「鈴木貫太郎」内閣に入閣した。7月18日から、西部方面の鉄道輸送路の
視察に赴き、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分と一周して、
一週間後というから7月26日、広島に立ち寄っている。
ここで「畑 俊六・西部方面第二軍司令官」「高野源進・広島県知事」
「大塚惟精・中国地方総監」と懇親している。その後は、大阪で
「佐藤栄作(後の総理大臣)・大阪鉄道局長」の案内で 京都に遊び、
29日に帰京している。
どこの都市も空襲が激しくなり、大分と大垣で列車が襲撃され、
危険な旅ではあったが、京都と広島は空爆されないと知って
いたようだ。
さて、帰京してから8月15日終戦までの、一日一日が緊迫の途。
極秘のうちに終戦工作がなされ、近衛文麿をソ連に派遣して
終戦の仲介を頼もうということになった。もう“溺れるもの藁をも
掴む” なりふり構わずである。モスクワ駐在日本大使は、小日山
大臣の義兄「佐藤尚武」氏で、小日山大臣の娘婿の「湯川盛夫」
(外務省の若手外交官)が、 近衛公より先に行くことになったが、
出発が幾度か変更された。
?
そうこうしているうちに、6日、広島に原爆。9日には長崎にも
落とされ、ソ連が国境を越えてきたとの情報。
「小日山」氏は満鉄の総裁で「関東軍」の推薦で入閣したから、
陸軍の人気も高く、会津人であり「徹底交戦派」かと思われていたが
さにあらず。「鈴木貫太郎・総理」に心服し、その意向を受けて、
終戦に向けてのさまざまな道を模索されていた。
8月9日、総理官邸で臨時閣議が開かれた。各大臣の意見は
まちまちで、真夜中の11時、総理は宮中に参内して、閣議の
模様を陛下に御報告。ただちに「戦争最高指導者会議」が開かれた。
この会議は「内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、
陸軍参謀総長、海軍軍令部長」の6人で構成。時間は容赦なく
経過して、10日の午前3時。総理が戻られ、再び閣議。
この時、「終戦」派が7、「徹底抗戦」派が3、「条件付き終戦」が
5のようだった。
11日、「ポツダム宣言受諾の用意あり」と、アメリカに打電。
12日に「バーンズ米国国務長官」の回答が、米国から放送され、
その内容について閣議を開いて検討。
14日、「閣僚全員即刻宮内に参内せよ」との思し召し。
異例のことで「平服のままでよろしい」とのお達しだったが、
豊田軍需、太田文部大臣は、開襟シャツだったため、
「いくらなんでも、陛下の前にこのままでは出れない」と
いうので、私(牧原)のYシャツとネクタイを貸した。
?
聖断がくだり、阿南陸軍大臣が、閣議のあと、真っ赤に
血走った顔で巾広の軍刀をガチャつかせて、総理の部屋に
入っていかれた。定めて、最後のお別れの挨拶であったと
思われる。それから まもなくして、割腹自殺された。
?
終戦の動きを察知した過激派将校たちが不穏な動きとの
知らせ。案の定、その夜、総理官邸が暴徒に襲われた。
下村情報局総裁が拉致されたとか、近衛師団長が射殺
されたとか、青年将校たちが野砲を宮城内に据え置いた
とか、放送局が占拠されたと、さまざまな情報が乱れ飛んだ。
(中略)
そして 8月15日の「玉音放送」。省員を大講堂に集めて、
玉音を拝聴。泣かぬものはない。悲しいというか、悔しいと
いうのか、力が抜けて、ただ涙が出るばかり。広い講堂の
床には、一面に涙の跡が残っていた。
?
翌日には「鈴木貫太郎内閣」は総辞職。「東久邇宮内閣」が組閣。
前閣僚で残留したのは「小日山運輸大臣」ひとり。しかし、
翌年には「小日山」氏も 私 (牧原) も 「公職追放」。議員を辞し
閑居する。
?
私の叔父「牧原源一郎」は、一代で田畑を買いあさって大地主と成り、
福島県一の多額納税者として、衆議院議員に推され トップ当選。
同郷の小日山氏の秘書官として仕えたが、戦後の「農地解放」では、
進んで田畑を小作人に分け与えた。その時のショックからだろうか、
妻(私の叔母)は自殺しているが、叔父は、その後、長らく 「北会津村
村長」を勤めた。 叔父の生涯は、NHK TVでも 特集された。
?

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