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シニアの放課後

十牛訓ー11 <4−得牛>@終 

2018年09月03日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<十牛訓>

それから第四図が<得牛>。

 はなさじと思えばいとどころ牛 これぞまことのきづななりけり

 これはね ようやく苦心惨憺の結果 牛をつかまえたんだよ 牛を。つかまえたにはつかまえたんだけれども なっかなかこれが思うように言うことをきかない。ややともすればもとの山の奥に逃げ帰ろうと暴れやがる。それをまた 逃がしてなるもんかと一生懸命に努力して 引っ張りっこしてるところなんです。
 心身統一法のほうでいうと さて 私の教えをひととおり聞き 実際方法もやるにはやったが やったときだけはわかったかのように思ったのもつかの間
健康や運命上の出来事が新しく顔を出してくると どうも全部が自分のものに完全になっていないように思う。ともすれば 教わった統一法という真理から離れた生活に入ろうとする。それをなんとかして ああ 俺も天風会員だから あたしも天風会員だからというんで 一生懸命その道から脱線しないようにと えんえんと努力するという状態です。
 ここで一言したいことがある。というのはね せっかくこうした人生道を 理論解釈のうえに さらにまた実践方法で習得した人の中にも まだまだ今までの悪い習慣や悪癖が相当多く それぞれ人々によって違うけれども その心や体に残存してやしないかい。とかく またしてもと言っていいぐらい 自分の周囲の環境にとらわれて そこに存在するいろいろな現象や あるいは交わる人の言葉や行為にまで 自分の心がウロチョロさせられ そしてあわれ本然の自性たる自我の本質も無明の雲にとざされて ややともすると元の木阿弥の人間に返ろうとする。それを考えなきゃ駄目だよ。
 ここにいるときだけは あっぱれ あっぱれ 本当にもう 私も三舎を避けるぐらいの感激に値するような様子を見せていながら ここから一歩表へ出て家へ帰っちまうと ぜんぜん人が違ったように もとの人間になるようなこともありゃしないかい。帰り道 歩いてていきなり怒っちゃったり 家へ帰って一服すってから怒り出してみたり 泣いてみたり 驚いてみたり。
 耳が痛い? 痛いぐらいじゃすまないんだよ それは。
 元来 人間の心というものは じつに玄妙なもので 昔の言葉にも<これを求むればうたた遠し>と言うぐらいでね。我々のように心の統御の方法をしってる者は まあ別と考えましょう。しかし 知らない普通の人間では―あなた方の知らなかった時代を考えてごらん―およそこのくらい扱いにくいものはないんだから 心ってやつは。考えなきゃ別だけど 考えるとね。いつも言うだろう。 <心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな>と言うくらいでね。
 そりゃ私も本当に覚えがあるよ。こりゃまあ坊さんも困ってるらしい。天台大師かな 名前ははっきり覚えてません。若い時のことだから こういう言葉を覚えている。
 
有なりとすれば 質疑あり
 無なりとすれば 虚想を起こす
 強いて名づけんか 妙となす
 
 これは心のことを言ったんだよ。あると思えば疑いが出てくるし 内とおもえば変な妄想みたいなのが出てくるし そらまあじつに不思議なもんだ。へんてこなもんだというので
   
   <強いて名づけんか 妙となす>

 だから 悟った 自覚したといっても なかなか油断できない。油断できないの。

   悟によりて習を断ぜざるべからず

 悟ったとて 悟ったのは一、二のことなんだ。習慣というものを改めなきゃ駄目だ。
 これとにたことを前にも教わってるね。何だろう。
 <観念要素の更改>に引き続いて 私は <積極観念の養成法>を説きます。その第一歩が<内省検討>であります。この内省検討が結局 <悟によりて習を断ぜざるべからず>という目的でこしらえられたものなんだ。現在の自分の思ってること 考えてることが 果たして積極か消極か おもむろに自分の心をもう一人の自分がのぞいてみなさいと。そして相変わらず <いい教えだけど やろうと思うとなかなか難しい>なんてことを言ってるやつは 要するに習を談じないやつなんだ。心の玄妙を統御しようがための一方便として 内省検討は私がこしらえたものなんだ。

 十牛訓四 <得牛> 終

〜続く〜



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