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葵から菊へ
美談「乃木将軍と辻占売りの少年」と日本陸軍白兵主義の体現者乃木希典
2019年05月28日
テーマ:テーマ無し
管理人は、2010年11月から19年7月まで金沢市に住んでいて、水彩画サークル「彩」に入会しました。
浅野川河畔にある主計町茶屋街を作品にしました。
その時に、「今越清三朗翁出生の地(乃木神社宮司松吉高雄揮毫)」の石碑を見つけました。横には「乃木将軍と孝子辻占売の少年」と彫られていました。
(注)乃木神社は山口県にある乃木神社で、季語した松吉高雄宮司は先々代の宮司である。
旧乃木邸(港区指定文化財)の前にある、銅像「乃木将軍と辻占売りの少年」に次のような説明パネルがあります。
「乃木将軍と辻占い売りの少年のお話は、明治24年、乃木希典が陸軍少将の時代に用務で金沢を訪れたときのお話です。希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は辻占いを売りながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は少年を励まし、金二円を手渡しました。
今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績をあげました。
この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年に六本木六丁目の旧毛利家の池(ニッカ池)の畔に立てられました。六本木六丁目開発のおり、乃木将軍縁のここ旧乃木邸に移されました。」
靖国神社・遊就館の展示室7「日露戦争パノラマ館」では、軍艦マーチが流れるなか、「大国ロシアに打ち勝ったという事実は日本国民に欧米列強並の大国としての気概と自信をあたえた」「ロシヤやヨーロッパの植民地の人々にも希望の光を与えた」というナレーションが響く約13分のパノラマ画像が流されます。
管理人が手作りした「靖国神社ガイド資料」から一部を抜粋します。
・・・・・・・・・・・
1)『戦争には必ず「前史」と「前夜」がある』 (都留文科大学笠原十九司名誉教授談)
2)日清戦争(1894〜95年)で台湾・澎湖諸島を植民地にしたことで軍事大国として欧米列強に仲間入りをした。
3)北京議定書により中国大陸に日本軍が駐留する権利を欧米列強諸国と並んで獲得した。
4)しかし満州における遼東半島の権益を「三国干渉」によって失ったことでより「臥(が)薪(しん)嘗(しよう)胆(たん)」を合い言葉に、さらなる軍事大国を目指した。
5)日露戦争(1904〜05年)によって関東州と南満州鉄道とさらには鉄道守備隊(後に関東軍)という中国大陸侵略の橋頭堡を獲得した。そして韓国に対する覇権をもロシアに認めさせた。
遼東半島(関東州)の租借権、南満洲鉄道の権益(「鉄道付属地」の炭鉱の採掘権などを含む)は「十万の英霊、二十億の国幣(こくど)」という莫大な犠牲と引き換えに得たほとんど唯一の戦果であり、以降、日本人は満州という土地に特別な感慨を抱いた。
日清戦争の戦費(国幣) 2億2500万円
日露戦争の戦費(国幣)17億2000万円
(毎日新聞社刊「昭和史」第3巻より)
6)「関東州・南満州鉄道・関東軍を基軸とする満蒙における特殊権益」が侵されると危機感をもった軍部が柳条湖事件を起し、それを口実に東北4省を侵略した。
7)植民地を拡大することが出来ない国際環境から傀儡国家満州国をつくった。
8)満州国を足場に治外法権と租界をもち、列強と共に中国を半植民地的に支配していった。
9)数十万の血で贖った中国大陸から撤退せよという「ハル・ノート」は宣戦布告であると、日本政府は考えた。
【泉鏡花著「予備兵」】より抜粋
明治二十七年七月、牙山の捷報新に到りて、平壌の戦雲いまだ乱れず、義勇兵に対する令いまだ下らざる前なりき、我忠勇烈なる国民は、抜刀隊あるいは義勇団を組織して所々に顔起せるほどに、名古屋第三師団の分宮を置かれたる石川県下金沢にも、決起の輩およそ一百名の同盟より、これらの団体は成立ちり。(略)躍然手に唾して義勇兵を組織し、鴨緑の流鞭絶つべし、支那人(チャンコロ)斬るべし豚尾十条を一束にして、両手に五葉ずつ挙げて帰るべしと、拒腕して気競いつつ、一飛渡韓せんと企つるもの、百余名ぞ頻れける。
【北清事変】
〔中国では辛丑(しんちゆう)和約。欧米では"Boxer Protocol"〕
1901(明治33)年9月7日に北京で調印された義和団事件における列国11ヵ国(ドイツ・オーストリア・ハンガリー・ベルギー・スペイン・アメリカ・フランス・イギリス・イタリア・ロシア・日本)と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。
主な内容は(1)賠償金4億5000万両(2)北京に中国人の居住を認めぬ公使館区域を設定して外国軍隊が駐屯。(3)北京から山海関までの沿線要地における外国の駐兵権を認める。(4)排外的団体に加入することを禁止し、禁を犯すものは死刑。 その後日本は北京周辺の駐兵権を廬溝橋事件など華北侵略のテコとして使った。
【日露講和條約】
1905(明治38)年9月5日「ポーツマス」ニ於テ記名 10月14日批准
(略)
第二條 露西亞帝國政府ハ日本國カ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ日本帝國政府カ韓國ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙シ又ハ之ニ干渉セザルコトヲ約ス
第五條 露西亞帝國政府ハ清國政府ノ承諾ヲ以テ旅順口、大蓮並其ノ附近ノ領土及領水ノ租借權及該租借權ニ關聯シ又ハ其ノ一部ヲ組成スル一切ノ權利、特權及讓與ヲ日本帝國政府ニ移轉讓渡ス露西亞帝國政府ハ又前記租借權カ其ノ效力ヲ及ホス地域ニ於ケル一切ノ公共營造物及財産ヲ日本帝國政府ニ移轉讓渡ス
第六條 露西亞帝國政府ハ長春(寛城子)旅順口間ノ鐵道及其ノ一切ノ支線並同地方ニ於テ之ニ附屬スル一切ノ權利、特權及財産及同地方ニ於テ該鐵道ニ屬シ又ハ其ノ利益ノ爲メニ經營セラルル一切ノ炭坑ヲ補償ヲ受クルコトナク且清國政府ノ承諾ヲ以テ日本帝國政府ニ移轉讓渡スヘキコトヲ約ス
追加約款
兩締約國ハ滿洲ニ於ケル各自ノ鐵道線路ヲ保護セムカ爲守備兵ヲ置クノ權利ヲ留保ス該守備兵ノ數ハ一「キロメート」ル毎ニ十五名ヲ超過スルコトヲ得ス而シテ日本國及露西亜國軍司令官ハ前記最大數以内ニ於テ實際ノ必要ニ顧ミ之ヲ使用セラルヘキ守備兵ノ數ヲ雙方ノ合意ヲ以テ成ルヘク小數ニ限定スヘシ
(以下略)
・・・・・・・・・・・
明治大学教授山田朗氏は、吉川弘文館刊「世界史の中の日露戦争」で乃木希典には「白兵主義の体現者としての乃木希典」とリアルに厳しい評価をしています。
・・・・・・・・
日露戦後の「日本式兵学」の確立にともなって、日本陸軍はその戦術思想の基本理念を火力主義から白兵主義へと転換した。そして、その白兵主義の体現者として偉大な存在とされたのが第三軍司令官だった乃木希典である。
だが、現実には乃木希典は決して優秀な指揮官とはいえなかった。
(略)
旅順要塞の防備の状況を十分に偵察し、当初から二八センチ榴弾砲をつぎ込み、坑道爆破戦術を実施していれば、結果的に人的犠牲も少なく、早期に要塞を陥落させることはできたであろう。しかし、大本営も北方作戦に熱中していた満洲軍総司令部も、第三軍の攻撃を急がせるだけで、要塞攻撃のための堅実な準備を怠った。乃木は、過酷な条件の中で、無理難題の解決を迫られたのである。したがって、拙い攻めにより膨大な損害を出そうとも、陸軍内部からは表立った乃木批判は起きなかった。それどころか、乃木と陸軍中央の無策を糊塗するために、戦後、作戦の巧拙は棚上げした上で、困難な任務を達成した軍人乃木希典の人格・責任感がことさらに称揚された。旅順攻撃の真相を知る児玉源太郎が戦後すぐに没したこともあり、苦戦・失敗の本質は深く検討されることなく、戦勝ムードの中で乃木の失敗は失敗ではなく、あれこそが日本軍の戦い方なのだ、という合理化が行われ、操典類の改定により成文化し、定着していくのである。また、膨大な犠牲が出たにもかかわらず、作戦が「成功」と評価されたことで、人的犠牲に対する感覚のマヒが陸軍のなかで起きたことも確かである。なるべく人的な犠牲を少なくして任務を達成するのではなく、犠牲を恐れず任務を遂行することが称揚されるようになった。これは、人的犠牲の多さは指揮官の「勲章」であるといった転倒した意識を陸軍に植え付けることになるのである。
・・・・・・・・
(続く)
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