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葵から菊へ
歴史散策「兵器を運んだ甲武鉄道飯田町駅」レポート?
2019年10月22日
テーマ:テーマ無し
昨日「歴史散策 三八歩兵銃を製造した東京砲兵工廠レポート」をエントリーしましたが、「兵器を運んだ甲武鉄道」レポートをエントリーします。
国立国会図書館デジタルインターネット検索の「甲武鐵道市街線紀要」が基本文献ですが、手元にある「新宿駅100年のあゆみ」から抜粋します。
・・・・・・・・・・・
甲武鉄道市街線建設に乗り出す
甲武鉄道の新宿一八王子間の開通により、織物産業のさかんであった八王子と、それを輸出する拠点の横浜港が直結されたわけであるが、新宿一横浜間は日本鉄道と官設鉄道が運輸に当たっていたため、甲武鉄道が運輸計画に独自性を発揮する余地はなかった。
甲武鉄道は新宿―八王子間を開業させる以前から、東京の中央部へ線路を延長させ、東京西部との旅客輸送に新たな活動分野を求める独自の運輸構想を描いていた。
その一環として、明治22年(1889)5月22日には、甲武鉄道線を神田区三崎町まで複線延長させる市街線の仮免許状下付を出願した。これは、市内の軍隊輸送を迅速円滑化したいという陸軍の要望がきっかけになっていた。陸軍はすでに、新宿と小石川の砲兵工廠との間に鉄道を敷設することを日本鉄道会社に諭示したという経緯があった。甲武鉄道会社の常議員雨宮敬次郎と検査役岩田作兵衛はこれを実現させようと、市街線建設を企画したのだった。
同年7月13日に仮免許を得ると、すぐに測量にかかった。諸般の事情からルートを変更する事態が生じたが、曲折のすえ現在の中央線の位置に落ちつき、明治26年(1893)3月1日、市街線新宿一四ッ谷―飯田町問建設の免許状が下付され、7月から着工の運びとなった。
新宿一飯田町間が開通
線路は単線で、最急勾配は牛込一飯田町間の1000分の11.4であった。駅は信濃町、四ッ谷、市ヶ谷、牛込、飯田町に設けられ、明治27年(1894)10月9日、新宿一年込間5.6キロメートル。翌28年4月3日、牛込一飯田町間804メートルを開業した。そして当初の計画通り、同年12月30日に同区間を複線にした。
蒸気機関車時代の市街線、四ッ谷駅付近(バックに市ヶ谷台の陸軍士官学校が見える。)
日清戦争始まる
当時、日本と清国の国際情勢は険悪な状態にあった。そのため軍部は、青山練兵場に軍用停車場を設け、甲武線と連絡して、西は広島北は青森までの軍隊の直通輸送計画をたてていた。(傍線は管理人)
甲武鉄道会社は軍部の要請で、軍用停車場と軍用線の建建設工事を委託されたが、工期を1カ月半と要求され、全力をあげてここれに当たった。その結果、市街線開通直前の9月17日に工事を完成させ、6日後から軍隊輸送を行った。この間、8月1日に日清戦争がぼっぱ発し、世相はいちだんときなくさくなった。
青山軍用停車場より、軍用列車に乗り込む兵隊
四ッ谷トンネル(新宿方)の上部に取りつけてあったカブト(左)トンネル(東京方)の上部に取りつけてあったカブト(右)
鉄道博物館展示品(コープみらい平和部会の方から提供された画像)
独歩の作品に登場した甲武鉄道
あわただしい世情であったが、国木田独歩の当時の作品『武蔵野』に、次のような一節がある。
「今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋といふ小さな橋がある。」
これによると、市街線が開業して間もなく、独歩は甲武鉄道を利用して境を訪れている。そして“或友?と雑木林のそぞろ歩きに胸をときめかせたのである。『欺かざる記』には、そのくだりが躍如としてつづられている。
「橋を渡り数十歩。家あり。右に折るる路あり。此道は林を貫いて通ずる也。直ちに吾等此の路に入る。
林を貫て相擁して歩む。恋の夢路!余が心に哀感みちぬ」
甲武鉄道は、このように早くも文学に登場したのである。武蔵野を詠んだ独歩の詩には、次の一篇もある。
山林に自由存す
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
鳴呼山林に自由存す
いかなればわれわれ山林をみすてし
現在、三鷹駅北口に『濁歩詩碑』が建てられ、「山林に自由存す」と刻まれている。
当時をしのぶ先覚の手記から
昭和39年5月、当時の田久篤次駅長が発行した『新宿駅八十年のあゆみ』に、『その頃の新宿駅付近』と題し、浜野茂新宿ステーションビルディング取締役・会長が、次のような一文を寄せている。
「新宿駅についての私の最も古い記憶は、日清戦争の頃、明治二十七、八年で、私が六歳か、七歳の時分である。(略)飯田橋の駅から汽車に乗って新宿に向うわけだが、途中四谷にはトンネルがある。トンネルの入口にはカブトの紋章がついていたが、これは甲武鉄道の会社の社章だったかも知れない。
日清戦争の頃だったからだと思うが、飯田橋や信濃町の駅前では兵隊さんの出征見送りが「バンザイ、バンザイ」と盛んにやっていたのを憶えている。
飯田橋から新宿まで、途中度々、駅に停って、長いこと待ち合わせてはゴトン、ゴトンと走り出す。子供のことなので、長く乗っていられるほど嬉しかったが、この間、多分、四十分くらいかかったように思う。(略)」
ここに出てくる「飯田橋の駅」は、おそらく「飯田町駅」のことだろう。
・・・・・・・・・・・
作図:管理人
(続く)
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