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上智大学「靖国神社参拝事件」とは 

2019年11月25日 外部ブログ記事
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ブルノー・ビッテル神父の上智大学は戦前、「靖国神社参拝事件」というカトリック教会にとって重要な事件がありました。
「国家神道」は、カトリック教のみならず、仏教その他の宗教(創価教育学会など)も「神聖にして犯すべからずの天皇」を戴く超国家的な宗教でした。
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靖國神社・遊就館展示室5「靖國神社の創始」から
 十三 東京招魂社から靖國神社へ
 明治維新、戊辰戦争の殉難者がひとしく国家に殉じた忠臣、功臣と認められ、明治十二年、招魂社は別格官幣社に列して神社となり、社号は靖國神社と改められた。軍務官に所属して創立された「招魂社」は「神社」となり、国家の宗始として、また日本人の祖先崇拝の信仰に基づく、慰霊顕彰の祭祀制度が確立する。
(傍線は管理人)
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管理人は、2006年頃上智大学図書館から「『「上智大学史資料集第3集」』東京朝日新聞(1932年10月21日付)広告欄に掲載した記事」をコピーしました。


「上智大学100周年?40」を転載します。



>文字起こし<
1.第一次大戦後の予期せぬ難問
第一次世界大戦を経た1925 年4月、「陸軍現役将校学校配属令」により、師範学校、中学校、高等学校、大学予科などの男子生徒の教練を担当するため、現役の陸軍将校を各学校に配属将校として割り当てることが定められた。同時に「教練教授項目」も文部省により定められ、部隊教練、射撃、手旗信号、軍事講話などの実施が指示された。学生は軍事教練に合格すると、将来徴兵されたとき、軍役を短縮し幹部候補生になれる特典が与えられたのである。大学にとっては社会的地位を得るために配属将校は欠かせないものであった。上智大学は1928年に配属将校の申請を行い、同年から1944年まで将校が本学に配属されていた 記録が上智大学史資料室には残っている。 1928年、大学令による大学として上智大学が発足した当時、日本は軍国主義的色彩を強めていく時期であった。1932年の5.15事件、1936年の2.26事件、1937年の盧溝橋事件から日中戦争が 勃発し、第二次世界大戦へと戦時体制が敷かれていった。そのような中、上智大学は予期せぬ難題をかかえることになる。それは「靖国神社参拝事件」と呼ばれる事件である。配属将校が本学から引き揚げると報道され、本学の存立が危うくなる重大な事件であり、キリスト教と日本の国家、宗教と国家の軋轢にまで発展した事件である。

2.靖国神社参拝事件の発端
1931年9月から本学に配属されていた北原一視大佐は、翌1932年5月5日に予科2年生60名を靖国神社に引率した。その際、3名の学生がカトリック信者として信仰を理由に靖国神社で敬礼を行わなかった。当時、カトリック教会は、神社や寺へ参拝することを禁じていたのである。 北原大佐はこの事実を直ちに陸軍省に報告する、陸軍省は文部省に、上智大学は国家にとって有害であるかのように通告した。 一方、その頃本学では、同年4月に新聞学科が開設されたことに加え、待望の新校舎現1号館)が竣工し、数日にわたり落成祝賀祭が行われていた。そして、ホフマン学長が、陸軍省が配属将校の引き揚げを図っているという知らせを文部省から受けたのが、6月14日、新校舎落成式の最中だった。その後、陸軍省と文部省との間で配属将校について文書でのやりとりが数回あった。またカトリック東京大司教区のアレキ シス・シャンボン大司教は、9月22日付けの文部省宛の手紙で、学生に要求されている神社参拝の意味に関する説明を求め た。これに対し9月30日付けの文部次官からの回答は「学生、生徒、児童等を神社に参拝せしむるは教育上の理由に基づくものにして、この場合に学生、生徒、児童の団体が要求せらるる敬礼は、愛国心と忠誠とを現すものに外ならず」というものだった。この通知を受け、日本のカトリック教会の司教は、神社参拝は愛国心を示すものであり、宗教的なものではないと理解し、神社参拝に参加することを許すようになったのである。

3.マスコミの報道で事件が拡大
これで問題は解決したかのように思えた。しかし、10月になり 報知新聞(1932年10月1日付)は、「靖国神社礼拝を学生が拒否、 信仰的信念を固執」の見出しでこの問題を取り上げた。さらに読売新聞(同年10月14 日付)では、「『軍教精神に背く』と配属将校引揚げ決意」という見出しで記事を掲載したほか、多くのメディアが配属将校引揚げを報じ始めたのである。 これらの記事に対し上智大学は、東京朝日新聞(同年10月21日付)に「謹告」として、本学は宗教学校ではなく、新聞報道は 事実に反するものであるという内容の記事を掲載。同年12 月5 日には同様の内容の文書を父兄宛にも通知した。しかし12月7日、陸軍省は定期異動を発表し、文部省の同意なく、北原大佐を本学から青森へと転じたのである。

4.危機を乗り越え解決へ
 北原大佐が青森に転じた後、本学への後任の将校はすぐには配属されず、配属将校の空位期間は長引いた。すると、東京朝日新聞(1933年2月10付)には「軍教問題を回って上智大もめる 卒業生の就職に影響」という見出しで記事が掲載された。当時、配属将校のいない大学は「愛国心に反する大学」という烙印を押されるに等しく、卒業生の兵役における特権が失われるということで、1932年5月に約315名いた学生は1933年5月には264名、1933 年末には約220名と著しく減少した上、就職口もないという噂が広がるほど深刻な事態に陥った。 しかし、1933年12月15日に選任された小出春男大佐が本学に着任し、問題はようやく鎮まったのである。 この間、陸軍省と文部省、文部省と本学・カトリック教会との間では数多くのやり取りが交わされており、一部の記録が上智大 学史資料室に残っている。 これが「靖国神社参拝事件」であり、上智大学にとっては、大学の存立が危うくなる、きわめて重大な事件となり、世間をも騒がせた。その後、本学はこの問題を乗り越え、学生数も徐々に増していったのである。

(了)

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