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90歳を目標に「南京大虐殺祈念館で父の重罪に許しを乞うため此処に座す」  

2019年12月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



1937(昭和12)年12月9日、日本軍は南京総攻撃。13日、南京陥落。17日、松井岩根上海派遣軍司令官が南京入城。
侵華日軍南京大虐殺遭遇同胞祈念館は、82周年祈念式典を行っているでしょう。
あと8年長生きをして南京大虐殺祈念館で献花したいと思っています。

献花のリボンには次の文字を入れたい。
『旧陸軍第九師団輜重兵第九連隊二等兵故長谷川幸二の長男
 元新宿区議会議員長谷川順一
 中国を侵略した日本軍は父たちが運んだ砲弾・銃弾で中国人を虐殺した
 その重罪を謝り赦しを乞う爲七十歳八十歳で献花。九十歳で此処に座す
            二〇二七年一二月十三日』

父の軍歴照会(石川県健康福祉部厚生政策課から回答)
氏名 長谷川幸二 明治39年 3月13日生
終戦時本籍 石川県金沢市高尾町レ43番地
位階:なし
勲等:昭和15年 4月29日 旭8等
賞典:昭和15年 4月29日 支那事変従軍記章授與
軍歴
昭和 2年 6月 1日 徴兵として輜重兵第9大隊第2中隊に入隊(20歳の徴兵検査後)
昭和 2年 7月26日 帰休
昭和 3年12月 1日 予備役
昭和4年、6年、10年 簡閲点呼済(上京していたので、東京市内で簡閲点呼を受けたと考えられる)
昭和 9年 4月 1日 後備役
昭和12年 9月15日 充員召集の為輜重兵第9連隊に応召
同 日       第6中隊に編入
昭和12年 9月23日 動員完結



大阪市内民家の宿舎に宿泊(子供を抱いているのが父)

昭和12年10月 1日 大阪港出帆
昭和12年10月 5日 上海港上陸
自昭和12年10月5日〜至12月5日まで上海、蘇州、溜東の戦闘に参加

戦地に送っ写真(蒲田区御園町の母の実家で)

自昭和12年12月 5日〜至12月21日まで南京付近の戦闘に参加
(以下略)
昭和14年 3月24日 輜重兵二等兵(勅令第74号に依り)
昭和14年 5月 1日 輜重兵上等兵
(以下略)
昭和14年 6月 8日 復員下令
自昭和14年 6月 9日〜至昭和12年 7月 2日 集結及輸送
昭和14年 6月20日 宇品港帰着
昭和14年 7月 9日 召集解除
昭和14年 7月13日 復員完結
昭和15年 9月15日 上等兵(勅令581号に依り)

昭和16年 7月10日 動員下令
昭和16年 7月19日 臨時召集の為工兵第52連隊に応召(関東軍特種演習の応召なので、母は戦地を知らなかった)
昭和16年 8月11日 金沢出発
昭和16年 8月13日 大阪港出発
昭和16年 8月17日 大連上陸
同 日       第3軍司令官の隷下に入る
昭和16年 8月20日 関東州界通過
昭和16年 8月23日 牡丹江省綏陽県境通過
自昭和16年11月1日〜至昭和16年12月6日 延吉屯営地区警備並輸送業務

戦地から送ってきた写真(父34歳)

昭和17年 1月20日 兵長
(以下略)
昭和18年 1月23日 牡丹江市出発
昭和18年 1月24日 鮮滿国境通過
昭和18年 1月28日 釜山港出帆
同 日       下関上陸
昭和18年 1月29日 工兵第52連隊に到着
昭和18年 2月 3日 伍長
昭和18年 2月 4日 召集解除(関東軍将兵の多くは台湾や南方戦線に配属されているが、二年間の兵役で復員できたのは、叔父のお陰だったと考えられる。叔父の軍歴を見ると当時は少佐で陸軍航空監部副官だった。) 

近所の友達と(管理人は左端)
復員した父から敬礼のやり方を教わりました。友達はハイルヒトラー式敬礼です。
「男の子は大きくなったら兵隊さん 女の子は看護婦さん」


下記のブログ記事をご参照くだされば幸甚です。

『訪中レポート?80年目の謝罪「父の重罪に許しを乞うため此処に座す」』

(了)

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